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どんなことでも基本が大切 好きなことにはいつでも夢中になろう |
北里大学は、我が国初の私立医学研究機関である北里研究所を母体に創設されました。開学当初から現代医学の発展に貢献し続け、今もなお最先端の教育を行う教育機関を目指しています。
北里大学の一期生でもある柴先生は、三菱化成(現・三菱化学)生命科学研究所研究員を務めた後、北里大学で生物科学科を新設するなど大学の発展に尽力し、2003年学長に就任されました。現在は、生物情報科学講座において学生の指導にも情熱を傾けています。北里研究所ゆかりの地、港区白金のキャンパスで、生命科学研究所時代の仕事や大学での新しい取り組みなどのお話をうかがいました。 |

■Profile
柴 忠義(しば・ただよし)
1943年宮城県出身。66年北里大学衛生学部卒業。慶応義塾大学医学部助手を経て、71年三菱化成(現・三菱化学)生命科学研究所研究員。75年医学博士学位修得。86年北里大学衛生学部教授。91年学校法人北里学園理事、94年北里大学理学部教授。98年同学大学院基礎生命科学研究科長。03年北里大学学長に就任、現在1期目。同学理学部教授、学校法人北里学園理事長も務める。専門分野は分子生物学、遺伝子工学。
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毎日六時半に登校授業前の掃除が日課
生まれは宮城県の塩釜市で、家から20、30m先に岸壁が見えるところで育ちました。父親は何十人もの従業員を抱える水産業を営んでおり、我が家には住み込みで働く従業員やお手伝いさんもいました。私は父親が四十歳、母親が三十一歳の時に生まれたひとりっ子ですが、両親に甘やかされて育てられたという記憶はありません。私が言うことを聞かないときは、押し入れに閉じ込められたこともありますし、チャンバラに熱中するあまり、友だちにけがをさせてしまった時は「どうしてそんなことをするのか」と母にきつく怒られたものです。また、父は従業員にも厳しく、職場はいつも緊張感に満ちていました。私の両親は厳しかったのですが、周囲の人たちには甘やかされていたと思いますね。終戦後の貧しい時代でしたが、食べ物にもさほど困りませんでした。家のななめ前に進駐軍の東北地区指令部が設置され、米兵にチョコレートを山ほどもらったことを覚えています。
小学校低学年のうちは勝手気ままに毎日を過ごしていましたが、小学五、六年生の担任の先生の指導によって生活態度は一変。今の私をつくったのは、その時の二年間だと思います。それはどんな指導かと言いますと、まず、朝は六時半に登校し、一人で校長室の掃除をするよう命じられるのです。乾いた雑きんを使って、部屋中ピカピカに光るまでみがき込む。掃除が終わると交通整理。当時は信号機がないので、学校に通じる国道に立って、おまわりさんの代わりに旗を振り、生徒を誘導するのです。それから授業を受け、放課後は用務員さんと一緒に竹かごを背負い、校舎全体のゴミを集めました。それをしないと家に帰してもらえませんでした。また、私は成績がさほど悪くなかったのですが、授業中に黒板の下に座らされることがしばしばありました。とにかく人一倍怒られたという記憶があります。また、戦後の混乱期だったので、生活に困っている生徒も多かったのですが、そんな同級生には勉強を教えるようにと言われたこともありますし、先生は自費で、そのような生徒の修学旅行費を出しておりました。当時の先生方は教育に対する確固とした信念と情熱を持っていたと思います。
父は先生の指導方針を認めていましたので、私はそれまでのわがままな生活を改めることができたのだと思います。
スポーツに明け暮れた中学・高校時代
小学校を卒業すると、塩釜を離れて仙台の公立中学校に通いました。中学校ではバレーボールのチームに入り、東北大会に出場したこともあります。スポーツを通じて学んだのは、みんなと結束し、物事を成しとげることの大切さです。
仙台一高に入学してからはヨットを始めました。二人乗りヨットではインターハイに出場し、全国大会で二度、準優勝したこともあります。県大会では負け知らずで、いずれは基礎の医学を学びたいと思いながらも、勉強よりも松島湾でヨット三昧の日々でした。高校二、三年生の夏休みの時には上京し、三週間ほど慶応義塾大学のサマースクールに通ったことがあります。サマースクールでは、大学の先生から理科や数学、国語などを教わりました。そのころ、父からは仏教系の大学に行きなさいと言われていたのですが、僧侶になれば坊主刈りにしなくてはならないですからね。高校三年生になって、ようやく髪を伸ばしはじめたというのに、また頭をそるのかと思うと、嫌で仕方がありません。また、両親には家業を継いでもらいたいと思う気持ちと、子どもの好きなようにさせたいと思う気持ちもあったようで、サマースクールに行きたいと言ったときも、好きなようにしなさいという感じでした。
仙台一高の生徒の八割は東北大学に進学するのですが、私は私学志向が強く、慶応の医学部に入りたいと思っていました。医学部といっても、患者さんを診る、いわゆる医師でなく基礎医学を学びたかったのです。その思いから慶応大学を受験したのですが、結果は不合格。それもそのはず、高校三年の秋までヨットに明け暮れ、ほとんど勉強をしなかったのですから。でも、合格発表の帰り道のことです。北里大学の学生募集のパンフレットをもらったのです。パンフレットには北里研究所、北里柴三郎先生の名前があり、基礎医学について学べる大学だ、というようなことが書かれていたのです。この時初めて北里大学の存在を知りました。当時は衛生学部のみで、化学科と衛生技術科という臨床検査系の二学科しかありません。ですから、基礎医学を学ぶなら衛生技術科なのかな、なんて思いながら願書を送り、両親には内緒で試験を受けました。北里大学には無事合格したのですが、親には猛反対されましたよ。そして母は上京して大学を見に行きました。当時はまだ北里研究所の古い建物が一つあるばかり、校舎の形もありません。
入学式も倉庫に紅白幕をはったようなところで行ったくらいでしたから。当然のように、浪人して慶応に入ればいいではないかと言われました。でも何とか説得し、北里大学に進学することにしたのです。
熱心な指導を受けた四年間
北里大学は、北里柴三郎博士が設立した北里研究所の創立五十周年を記念してつくられた大学です。北里先生は、慶応義塾大学医学部の創始者でもあるので、研究所には慶応の卒業生も数多く在籍し、優秀な研究者の登竜門のようなところでもありました。ですから慶応大学とは今でも非常に深い繋がりがあります。
特に北里大学の創設時には、教育面で慶応大学医学部の全面的なサポートを受けたようです。それに、指導陣は四十代の若い教授が教鞭をとることが多かったですね。教養教育の授業にも、高名な先生が大勢来られました。特に印象に残っているのは、奥野彦六先生による法学の授業です。人間の在り方について考えさせられ、とても感銘を受けました。例えば、医学部の学生が律論を聞いても、実際にはそれほど頭に入らないわけでしょう。今は逆の立場にいるので、教養教育を担当する先生に対し、専門課程でないからこそ、教える側の人柄や講義をしているときの雰囲気といったことも大切ですよ、と話すことがあります。私自身、多くの先生方と交流し、その人柄に触れるにつれて、人間の在り方こそ大切なのだと思うようになりましたから。当時を振り返ると、授業料も私立としては安く、私が学生時代に受けた教育と今日の学生に対する教育対価を比べると、非常に恵まれていたと思います。学生数は全部で百五十人ほど、二学科合同で授業が行われるときもありましたが、実習の内容は、とても充実していました。といっても、校舎はまだ建設途中で教室も少なく、新しい校舎ができるたびに教員ともども引越しをしたものです。もちろん運動場もありません。体育の授業は近所の有栖川公園で行いました。そのころ体育の指導にあたってくださったのが、テニスの名手でもある森先生でした。この時から私はテニスを始めるようになりました。敷地内に二面だけテニスコートをつくってもらったのですよ。
親の病気で研究を断念
大学三年生になると、卒業後の進路を考え始めるものですが、当時北里大学には大学院がなく、同級生の一部は他大学の大学院に進もうと考えていたと思います。三年から四年に上がる年の冬のこと、私は発売されたばかりの「分子生物学」という本を読んだのですが、その本の影響で、いずれは分子生物学を研究したいと考えるようになりました。ちょうどそのころ、著者の一人である渡辺格先生が、日本の医学部では初めて慶応の医学部に分子生物学教室をつくられたのです。できたばかりの研究室を訪ねると、先生は快く迎え入れてくださって、卒業後には先生の助手になることができました。当時は無給助手という制度があり、夏は氷代、冬は餅代といって、わずかな手当しか出ません。私は学生時代と変わらず親の仕送りで生活をしていたのですが、二年目のある日のこと、父が病を患い、両親に説得されて家業を手伝うことになったのです。しかし、どうしても家業では我慢できず、私は一年後に家出をしてしまいました。そして、住み込みで病院の臨床検査技師のアルバイトをしながら、慶応の助手を再開。日中は医学部に通い、夜は病院で血液などのデータを出す日々が続きました。
忙しかったけれど、好きなことができるので、つらいとは思いませんでしたね
憧れの先生の下で研究をした十五年間
助手になって五年経ったころです。三菱化成(現・三菱化学)生命科学研究所から、研究員にならないかという誘いを受けたのです。学園闘争の影響で学位審査が受けられなかったこともあり、私は迷わず研究所に入りました。初代所長は、偶然にも「分子生物学」のもう一人の著者である江上不二夫先生。この時に念願がかない、日本に根付き始めたばかりの分子生物学の研究を行うことになったのです。それからは、しばらく遠ざかっていたテニスも再開し、研究所時代はテニスと研究以外のことは、ほとんど何もしていないように思います。テニスをしながら研究をしていたと言っても過言ではないくらい充実していました。一九八三年に、トウモロコシの研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した、バーバラ・マクリントックという女性生物学者がいます。その学者は、一九六〇年代に、トウモロコシの遺伝子には、いわゆる「動く遺伝子」という遺伝子があると発表しました。
ですが、当時はそんなおかしなことあるはずがないと言われ、それが事実なのか長く解明されていなかったのですが、その後、ショウジョウバエにも「動く遺伝子」があることが発見され、その遺伝子がガンウィルスや医学にも結びつくという研究を行いました。例えば「動く遺伝子」が細胞の中を移動すると、移動した場所の遺伝子が変化し、さまざまな変異を起こす、ということです。わかりやすく言いかえると、例えばですが、ショウジョウバエにある「動く遺伝子」が目の色素をつくる遺伝子の中に転移するとしましょう。すると、赤い目をつくる機能を持った遺伝子が変化し、赤い目をつくる色素をつくれなくなります。そして、白い目をしたショウジョウバエに変異してしまうということです。つまり、「動く遺伝子」には、場合によってはウィルス(レトロウィルス)をつくり、細胞の中では遺伝子として移動し、我々の遺伝子の中に入り込み、結果としてガンを引き起こすようなことになることと密接な関係があることがわかったのです。そのころ、江上先生は入院されていたのですが、その研究の報告をすると、よくやったと、とても喜んでくださいました。
先生はその一ヵ月後に亡くなられ、その翌年、私は北里大学の教授になりました。そして二年後の一九八八年、衛生学部に生物科学科を創設しました。
北里博士の意思を継ぎ理学部を創設
生物科学科は他の大学にはない学科でしたから、人気があり、衛生学部全体の志願者数が倍増したので、私は学科長や理事をしながら、理学部の設置にも参画しました。北里先生は、いわゆる免疫療法の研究をされた方で、大学創設にたずさわった方々は大学を設立する際に理化学部を設けたいと申請されたのですが、国から衛生学部と名付けるようにと命じられ、理化学部が創設されなかったという経緯がありました。一九九四年になってようやく、理学部と医療衛生学部に分かれ、生物科学科は理学部の学科の一つとなったのです。
夢は附属病院に安全な食品を提供すること
最近の主な取り組みは、獣医畜産学部のフィールドサイエンスセンター(FSC)による環境保全型牛肉生産の実践です。北海道の八雲牧場では、輸入飼料穀物を使用しない自給飼料により、夏は放牧、冬は乾草や貯蔵した牧草のみで飼育し、人工飼料は一切与えない、北里八雲牛という100%循環型の牛を育てています。大学創設にかかわった長木大三元学長は、「北里は肉や魚を自分のところでつくり、それを患者さんに提供するのが理想だ」と話しておりまして、そのお話を一部、具現化し、昨年から附属病院の患者さんに提供を始めました。FSCで生産した肉牛や加工食品は病院の売店で購入ができ、ビーフジャーキーやコンビーフも好評です。八雲の乳製品や、十和田キャンパス近くで栽培されるニンニクやその他の野菜、大船渡にある水産学部からは、安全な魚等々、病院に供給できるよう地元地域と連携を取りはじめつつあります。
また、薬学部は、2005年に相模原市と新都市農業推進協定を結びました。新たに薬用植物をつくり、市民に開放するだけでなく、付加価値のある植物の栽培や、加工技術・流通面での事業に行政と企業と一体となって取り組みます。本学のスクールモットーの一つである「叡智と実践」を医と農の連携から学べるのが北里の特徴ではないでしょうか。
吸収力が高い時期に十分な教育を
私には子どもが三人、そして六人の孫がいます。この孫を見て強く感じるのは、特に二歳から小学校三年生くらいの間の吸収力の高さです。ですから、日本の小学校や中学校での教育は、ゆとり教育でなく、もっと基礎を詰め込んでもらいたいと思いますね。「鉄は熱いうちに打て」と言いますが、吸収できるものはとにかく吸収させ、その時期にしっかり詰め込まないと、後になっても間に合わないのではないでしょうか。ゆとりをはき違えていると思いますね。どんな子どもにも、教育に適した時期が必ずあるはず。だから、その時期にはたっぷりと知識を与え、そしてモラルを持たせてください。子どもが小さい時から、言うべきことはきちんと言いましょう。学校まかせではなく、親が厳しく言い聞かせるのも大切です。教育とは、とても時間がかかるものですから、きちんとしつけ教育を行わないと、これからの日本、そして若い人達の将来も良くなりませんよ。小中学校での教育をきちんと行わないと、子どもは育たないと私は思いますね。私が子どものころは、一学年十二組まであり、一学級は六十人前後でした。でも今は一学級三十人前後ですね。だから、今のほうが手塩にかけて育てている。しかし、むしろ昔のほうが優れた人達が多いのではないでしょうか。これは子どもの責任ではなく、親の責任、国の責任だと思います。
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生命科学領域の教育・研究を実践、専門性に徹した4つのキャンパス
北里大学は、北里柴三郎博士が創設した北里研究所(世界3大研究所の1つ。ドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所と日本の北里研究所)の創立50周年を記念し1962年に設立されました。現在は、理学、医学、薬学、看護学、医療衛生学、獣医畜産学、水産学の7学部15学科のほか、6つの大学院研究科と学府、生命科学研究所、医療系専門学校、そして、2つの大学病院を有する生命科学の総合大学です。1学年次は全学部が相模原キャンパスで、そして2学年次から学部ごとに学習内容に適したキャンパスで学び、「開拓・報恩・叡智と実践・不撓不屈」をモットーに生命科学にたずさわる有能な人材を育成しています。 |
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