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関塾 タイムス
三重県 野呂 昭彦知事に聞く
毎日の小さな積み重ねが大切 何事にも積極的に挑戦して輝かしい未来を生きよう
紀伊半島の東部に細長くのびる三重県は県土の約三分の一以上が自然公園区域。中央を宮川や櫛田川が流れ、山、渓谷、海を望み、気候も四季折々の自然の美しさに恵まれて穏やかです。古くは大和朝廷時代から拓け、伊勢神宮に代表される伝統ある文化・歴史にも育まれ、豊かな自然、社会経済的条件を活かし東西日本の結節点として発展してきました。松阪市長を経て、二〇〇三年四月に三重県知事に就任された野呂昭彦氏は、三重県の魅力を「わび」「さび」「もののあわれ」といった日本人の感性を生み育んできた地であるとおっしゃいます。趣味で挑戦されている油絵も主に三重県の文化財や風景がテーマ。常に時代を冷静に見つめ、「今こそ恒心を忘れずに、心の豊かさを取り戻したいもの」と語られる野呂知事に、ご多忙な公務の合間をぬって、幼少のころの思い出から学生時代、今後の展望にいたるまでをお話しいただきました。
■Profile
野呂 昭彦(のろ・あきひこ)
1946年三重県松阪市(旧飯南郡飯高町)出身。69年慶應義塾大学工学部卒業。72年同大学院工学研究科修了。同年日立金属(株)入社。79年厚生大臣秘書官。83年衆議院議員(〜96年9月まで、連続4期)。90年厚生政務次官。00年松阪市長を経て、03年三重県知事に就任。
父の背中を見て育った幼少時代
私が生まれたのは、飯南郡飯高町。二〇〇五年の一月に合併して松阪市飯高町となりました。子どものころはいつも蝶やトンボを捕まえ、堀川でザリガニやカエルを釣るなど、山や谷や川で過ごすことが多かったです。
父親は政治家で、私が生まれてすぐ県議会議員を務め、その後国会議員になりました。ですから、家にはほとんどおらず、帰宅も深夜になることがめずらしくありませんでした。母は苦労をして私を育ててくれたのですが、お箸の上げ下ろしから人に対する言葉づかいまで、しつけは厳しく、ずいぶんしかられた記憶があります。言うことをきかないと、蔵に放り込まれて閉じ込められたことも何度かありました。
小・中学校では、先生は非常に怖い存在で、また、尊敬しなければならない存在だと思っていました。同窓会で恩師に再会すると、今でも尊敬の念が自分の中にあるのを強く感じます。先生が私たち生徒のために、一生懸命に取り組んでくださったことを、今でもしっかりと覚えています。親とはまた違った愛情をかけてくださいました。
中学校は三重大学の附属中学校へ進みました。一生の付き合いができる友人たちと出会ったのは、この時期ですね。中学時代の懐かしい場所と言えば、今は三重大学医学部の附属病院になっている辺りです。100〜200m先に堤防があり、伊勢湾でも指折りの美しい海岸線として知られています。ここでは砂浜を少し掘ると赤貝などがとれました。遊泳は禁止されていましたが、浜辺ではよく遊びましたよ。
機械いじりと冒険が楽しかった高校時代
高校は伊勢神宮のお膝元にある伊勢高校です。進学校だったので進学に対する意識の高い先生が多かったですね。私は生物クラブに入っていました。三年生はクラブ活動を早々に引退し、受験勉強に重点を置くという暗黙の決まりがありましたが、機械いじりが好きだった私はオートバイや軽四輪の免許をとるなど学校以外の場所で楽しみを見出していました。
高校時代のできごとで強く印象に残っているのは、伊勢神宮外宮の裏の鍾乳洞を探検したことです。先輩が鍾乳洞を探検して全国で表彰された直後でもあり、私も鍾乳洞探検がしたくてたまらなかったのです。コウモリの糞をかきわけ、途中水中をはい、一番奥までたどり着くと、奥には広い空間が開け、滝が流れていました。抑えられない好奇心、懐中電灯の明かりだけを頼りに、ワクワク、ドキドキしながら仲間とともに洞窟の奥地へ、奥地へと進んでいったのを覚えています。
先生のアドバイスで慶応大学工学部を受験
大学は慶應義塾大学工学部へ進みました。
慶應の工学部を受験することになったのは、先生が「おまえは数学・物理系が得意なのだから、理数系を受けるべきだろう」と言ってくださったからです。ちょうど慶應の管理工学というのが注目されていたこともあり、受験しました。
先生から学んだことが今の私の考えの基本に
あまり自慢できませんが、大学生活がスタートした時は、遊び中心の学生生活を送っていました。そうこうするうちに四年次を迎え、卒業論文を制作しなければならない時期になりました。そして、研究室も選ばなければならない。必然的に大学の教授と深く関わるようになりました。そんなある時のことでした。先生に「工学部の工の字の意味合いを知っているか」と問いかけられたのです。工の字の上の横一は「天」、すなわち知性・理論を指し、そして下の横一は「地」、すなわち実社会・実践を指す、と言うのです。でもこれでは「二」になり、「工」の字にはなりません。工学部の「工」の字はそこに、縦棒=はしごが存在しています。先生は言いました。「この真ん中のはしごこそが真髄なのだ」と。「決して理論におぼれてはならない。また、決して実社会の中にどっぷり浸かって現状に満足してしまってはいけない。理論を学び、それをいかに実社会に結びつけるかが大事だ」と。この時の教えこそが、現在の私の考えの基本となっています。
人生は短く、限りがある一瞬一瞬を大切に生きよう
先生の教えには、またこんなエピソードもあります。小・中学校のころから使い慣れているB5サイズのグラフ用紙があります。あの1mmの方眼紙を一日一コマずつ塗りつぶしていくとしましょう。私たち人間が生まれてから死ぬまで、人生八十年と考えていったいどれくらいの方眼紙を塗りつぶすことになると思いますか? 驚くことなかれ、これが、なんとたったの一枚の用紙さえ塗りつぶせないのです。人生とはいかに短いものかということですね。つまり、この教えには「限りある人生の一瞬一瞬を大切に生きなさい」とのメッセージが込められているのです。このような尊い教えを数々いただき、大学卒業を迎えるころ、ふと私はこれまでの学生生活を振り返ってみました。
考えてみると、自分は将来のことなどもあまり考えずここまできた。あまり勉強もしてこなかった。私は深く反省し、大学院で勉強をし直そうと決意したのです。でもそんな調子で大学四年を過ごしたわけですから、もちろん、大学院は推薦では入れませんでした。夏休みの学内試験も、見事に失敗です。結局、学外から慶應の大学院に受験する人たちと一緒に受験し、なんとか大学院に進むことができました。
あきらめさえしなければ必ず道は拓かれるもの
大学院でお世話になったゼミの教授は、千住鎮雄先生。日本画家の千住博さん、弟で作曲家の明さん、妹でバイオリニストの真理子さんの「千住三兄弟」といわれる有名なご兄弟のお父様です。物静かではありますが、学問については厳しさも兼ね備えておられ、非常に尊敬できる方でした。先生のすすめで田中貴金属という金ののべ棒を作っている会社でアルバイトを体験したのも、いい思い出です。ほかには、日暮里の駅前に日本電子計算機専門学校というのがあり、そこの講師のアルバイトも体験しました。
卒論は投資効果についての研究です。たとえば、ある企業が投資をする時、自己資本で調達するのと、借り入れ金で調達するのと、それらを組み合わせて調達するのとでは、いずれの場合がもっともいい戦略となるかという研究です。公式を立てて、一つひとつ証明するのですが、これが、なかなかの難問。随分考え方を整理したものの、どうやっても最後の最後で公式というスマートな形に収まらない。行きづまって最後の壁がなかなか突き破れないまま半月、ひと月と経ち、「このままでは今年も卒業は危ういな」というところまできたときでした。ある夜のこと、「今日もまた解決できなかったな…」と思いながら布団の中に横たわったのですが、なかなか寝つけません。さっきまで計算していた式が頭の中をめぐります。でも不思議なことに、この時、ある考えがふっとひらめいたのです。「こういうやり方でアプローチしてみてはどうだろう」と。すぐに飛び起きて机に向かうと、それまでのスランプがまるで嘘のようにパッと解けました。そしてその論文は、その年の最優秀論文に選ばれたのです。この体験で私が得た一つの大きな教訓は、「あきらめないで取り組めば、道は必ず拓かれる」ということです。
常に自分の足元を見て正しいかどうかを判断
大学卒業後は日立金属という会社に就職しましたが、父親の選挙の手伝いをきっかけに、一年ほどで勤めを辞め、父の秘書になりました。そして約十年間秘書を務め、八年目に父が倒れたこともあり、今度は私が直接政治の場に出ることになりました。国会議員を務めたのは十三年足らず。四期にわりました。この間、私が最大の教えをいただいたのは故・三木武夫氏であり、故・河本敏夫氏です。三木先生の「信なくば立たず」という言葉があります。これは「国民の信頼なくして、政治は成り立たない」という意味です。先生はまた「国民を畏れよ」とも教えてくださいました。
河本先生は「政治は批判するところから始まる」と。どのような立場にあっても、それが本当に正しいことなのかどうか、常に足元を見るという姿勢が大切なのだと説いておられました。
お二人の言葉は、そのまま私の政治信念となっています。
国会議員は四期で退きましたが、その後、お世話になった地元後援会の方々の強い勧めもあり、松阪の市長選に出馬し、当選。松阪市長を約三年務め、その後、北川知事が辞任されたのを期に、二〇〇三年に三重県知事に就任し一期目、現在に至ります。
自分を大切にする、それが他人を大切にする
長年の政治家人生を経て今つくづく感じることは、まず、何事においても自分の目でしっかり見、頭で考えて、それが本当に正しいことなのか、今やるべきことなのかと絶えず批判眼を持って進んでいくということです。
これからの世を担う子どもたちに私が望むことは、「どうか、自分の人生を大切に生きてください」ということ。自分を大切にできない人は、他人を大切にすることはできません。
限りある人生をどう生きるかは、毎日、毎日の積み重ねです。努力を惜しまず、何事にも積極的にチャレンジして、ぜひとも輝かしい未来を築き上げてもらいたいものですね。