関塾

2006年3月号vol.344

今月のタイムス
MONTHLY SPECIAL

1. 年間学習スケジュールのポイント!
21世紀を生きる君たちへ
栃木県 福田 富一知事に聞く
私の勉学時代
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特別企画 21世紀を生きる君達へ
栃木県 福田 富一知事に聞く
まわりを広く大きく見渡すことが大事。社会の仕組みを知り、学習し、知識を身につけ、それを社会で生かせる人間になろう。
関東平野の北東部に位置し、爽やかな風と美味しい水、豊富な緑、滋味豊かな食材に恵まれた栃木県。世界遺産に登録された日光の社寺や、ギネスブックに登録されている世界一の杉並木をはじめ歴史と文化、そして自然の魅力が豊富です。福田知事は県民の熱い支持を受け平成十六年に就任。以来、栃木を元気と活気に溢れた、一人でも多くの人々が「住みたい」「行ってみたい」と望むような県を実現したいと考えておられます。今回は、栃木の風土を彷彿とさせるようなさわやかな知事の幼少の頃のほほえましいエピソードから、恩師との交流、そして県庁職員として勤務しながら勉学にいそしんだ大学時代の思い出などをたくさん語っていただきました。

■Profile
福田 富一(ふくだ・とみかず)

1953年栃木県今市市木和田島出身。72年県立宇都宮工業高校卒業後、栃木県庁入庁。79年日本大学理工学部建築学科卒業。83年宇都宮市議会議員就任。91年栃木県議会議員就任。99年宇都宮市長就任。2004年栃木県知事に就任。


朝から夕暮れまで自然の中で過ごした

 生まれは栃木県今市市木和田島というところです。家は大家族で、曾祖父母、祖父母、両親、兄弟三人の計九人で、私は長男でした。家のまわりは山と川と田んぼで、幼稚園も保育園もなければ塾もありません。ですから毎日朝から暗くなるまで自然の中で泥だらけになってめいいっぱい遊び、親の手伝いで田植え、稲刈りなどもやりました。
  遊びと言えば、田んぼの中で三角ベースの野球ですね。野球で使うバットは手製で、グローブがない時は新聞紙で作りました。それから竹馬も竹トンボも全部自分で作りました。また、川をせき止めては魚捕り。小魚を釣るよりちょっと大きい目の下げ針というのがあるのですが、それに水糸を縛って、どじょうを餌にして、1mぐらいの篠竹につけて夕方川に刺して置き、夜明けとともに捕りに行くのですが、翌朝にはうなぎ、鯉、はや、なまずなどがかかっていました。十本掛ければ一匹はかかったかな。そうして捕まえた魚は蒲焼にして食べました、当時はそれが貴重なタンパク源でした。
  それから山ではワラビやぜんまいなどの山菜や、ゆりの根を採り「これでキントンを作って」などと言っておふくろに渡すんです。考えてみると、ある意味自給自足の生活でした。

「井の中の蛙大海を知らず」の意味を知ることができた

 小学校は今市市立猪倉小学校です。一学年に一クラスで、六年間で担任は四人。親はたまに絵本を読んでくれたり、わからない宿題を教えてくれましたが、農家の親は朝早くから夜遅くまで忙しいですから、勉強を教えてもらった記憶はあまりありません。「自分で勉強して、わからないことがあったら、次の日先生に聞きなさい」と言われる。勉強しなさい、宿題は終ったか、というような記憶もほとんどありません。考えてみると、自立心は小学生の時から植え付けられていたと思います。五年、六年生の頃、男の先生が「大きな川を見せてやる」と言って、鬼怒川に連れていってくださったことがあります。当時、学校にはプールがなくて生徒は川で泳いでいたのですが、みんな幅の小さな川しか知りません。先生は「大きな川もあるんだよ」と教えてやろうと連れて行ってくださったんでしょう。その頃の通信簿の通信欄には「井の中の蛙大海を知らず」と書いてあり、当時の私にはその意味がわからなかったのですが、先生は大きな川に連れて行くことでその意味を少しでもわからせようとしたのでしょう。

恩師が教えてくれたさまざまな人生の選択

「井の中の蛙大海を知らず」の意味を知ったのは、今市市立大沢中学校に入学してからです。四クラスになり他の小学校からきた生徒と一緒に勉強するようになった時です。これから英語を勉強するという時に、他校からきた人の中にはすでに英語ができる人がいる。これには大変驚きました。その生徒は医者の息子で家庭教師について、すでに英語を習っていたんですね。この時に小学校の担任の先生が言った言葉「井の中の蛙大海を知らず」が理解できたのです。
  現代の子どもたちは、残念ながら先生と生徒の結びつきが希薄になっているように思います。恐らく彼らが大人になる頃、小学校の六年間で教えてもらった先生の名前など覚えていないかもしれませんね。
  さて、中学生にもなると将来のことや進路を考えなければなりませんが、それまでの私には”農家の長男は農業に就くもの“という考えしかなく、さまざまな選択肢など思い浮かばない。そんな私に先生は「違う生き方もあるんだよ」というのを教えてくださいました。私はそれによって工業高校建築学科への進学を自分の道として選ぶことができました。

親のように接してくれた先生の深い愛を胸に

 高校は県立宇都宮工業高校です。高校では朝から夜までバスケットでした。チームメートは二十名。ただそれだけの人数がいとと練習がキライな人もいるんですね。県大会で優勝しようという目標を掲げているのに、練習に身を入れない人がいる。私はある日その人に「真面目にやれ」と怒ったことがあります。するとその人はバスケットを止め、練習に来なくなってしまいました。でもその時も先生が「これから仲良くやれ、夏の大会が近いのだから、いざこざを起こさないように」と間に入ってくださって…。今振り返れば、それもいい思い出です。その後、栃木県で三位になり、私は栃木県の選抜チームのメンバーとして選出していただきました。部活に熱中した日々から、いよいよ就職です。
「県庁で建築の技師を募集しているから」と先生に教えていただいて、県庁に入ったのですが、なんと職場には夜学の大学に通う人がいる。そこで高校時代の担任の先生に相談してアドバイスをいただきました。日本大学の理工学部の建築学科に入り、勤めながら大学に通いました。
  小学校から高校まで、そして高校を卒業した後も、人生の節目節目では必ず先生が親代わりになってくださったと感謝しています。今日の私があるのは先生のおかげです。
  今はどうなんでしょうか?そういう先生が少なくなってきたのではありませんか?子供からすれば学校の先生も塾の先生も同じですね。子どもがあの先生に相談したいと思うような尊敬できる先生がご自身の体験したことを話しながらアドバイスしてあげるのがいいのではないでしょうか。小学校から、中学校、高校、そして地域全体がそういう環境になり、塾にも進路支援コーナーみたいなのがあればいいですね。

過酷な大学時代にしっかり身についた自信

昼間働いて、夕方から大学へ行き夜に勉強するわけですから、私には日曜や祝日、そして休みもなく常に実験のレポート、製図の課題などに追われていました。電車で宇都宮から通っていたのですが、学校は四年で卒業すると決めていましたから、四年間休んだことはありません。
  通学は浅草行きの一時間に一本の快速電車。学校まで約ニ時間からニ時間半かかります。当時新幹線は走っていません。例え走っていてもお金がないから、乗れませんが…。JR、地下鉄、バスを乗り継ぎ、往復で一日に五時間は乗り物に乗る毎日です。常に背中に秒針がついているような生活でした。でもこの生活をやり遂げたことで自分は大きくなったと思います。過酷な毎日でしたが、でもそれは自分の人生の可能性に挑戦したいと自分で選んだことです。
  もちろんテレビなど買えないし、夜中にラジオを聴くのが唯一の楽しみという質素な生活でした。入学時は210人ほどいた学生が、実際一緒に卒業できたのは70人程度でした。

仲間に支えられて県職員から市議会へ

五十四年三月に大学を卒業して、五十四年、五十五年の丸ニ年間は県庁に勤め、五十六年の三月いっぱいでニ年後の市会議員の選挙に備えるために退職しました。当時ニ級建築士と行政書士の資格を取得していたのでそれで生活費を稼ぎながら選挙活動を行いました。ニ年後の選挙ではたくさんの人にお世話になり、かろうじて当選することができました。本当に嬉しかったです。
  政界に初めて入ったのは二十九歳でした。政治家を目指そうと思った動機は、その頃、特定の人の利益のために法すらも曲げようとするような県会議員がいたからです。当時の政治家は床の間の政治です。床の間を背中に背負って、地元の人が「よろしくお願いします」と頭を下げに来る政治でした。
  もう今はそういう時代ではありませんが、私は真に住民のために働くという政治をしなければならないと痛感したのです。私はずっと「出前の政治」というものを掲げています。出前の政治というのは議員が地元に出向いて行き、例えば、橋が壊れたとか川が氾濫していれば、そこへ行って写真に収め、役所に持って帰って、「橋がこういう状態になっている。早く修理を」と指示するような政治です。
「政治家になりたい」という目標が定まると、なにをすべきか、やるべきことが見えてきますね。そして応援してくださる人も出てくる。
「いい人を紹介しますよ」と言ってくださる方の計らいで、私はニ年の準備期間の間、政治評論家、指南役という人からいろいろ勉強をさせていただきました。
  やはり人との出会いは大切ですね。高校の同級生も政治には素人ですけど「馬鹿なこと言って、ホントに政治やんの?しょうがないなぁ、それじゃあ私たちも応援しようか」と言ってくれました。選挙の時はとても大きな力になってくれました。
  自分が目標を決めたら、それがゆるぎない固い決意であることをまわりに知らしめることが大事です。そして、自分もそれにむかって努力をする。そうして人の輪が広がるとさらに新たな出会いがあり、さらに広がる。好循環ですね。私は活動中 ”思う信念岩をも通す“という言葉をずっと頭の中で反芻していました。

地元に出向いて行く政治でマニフェストを実践する

 市議会や県議会をやりながら考えていたことは「自分の思いを成し遂げるなら、その可能性は議員より市長の方がはるかに高い」ということでした。そこで市長選に立候補し、晴れて宇都宮市長になることができました。
  その後知事になったのですが、これは私を日頃から応援してくださった市町村長、市議会議員、県議会議員、国会議員の後押しのおかげです。
  逆境のときに本当に心配してくれる人、それが真の友人だと私は思います。ある時”花は、咲かない冬のとき、下へ下へと根を伸ばす “という手紙をくださった人がいます。準備期間中この手紙は私の支えになりましたよ。「今は根を張る時期なんだ」と自分に言い聞かせて頑張ることが出来ましたから…。
  知事としては、県民との信頼関係、県政を実際に動かしていく職員との信頼関係が大事です。そして選挙のときに約束した政権公約(マニフェスト)を四年の間に可能な限り実現することです。もし実現できないとしてもその説明責任はしっかり果たさなければなりません。そして仕事は一人ではできません。職員と一緒に力を合わせてやっていかなければなりません。

目標に向かって自分が納得する人生を

 青い鳥は必ずいます。天職も必ずあります。ただそれは親に言われるものでもなければ、まわりから進められるものでもなく、本人が探しあてるかどうです。そして探す過程で、発見がある。そのためには社会を広く大きく見渡すことが大事ですね。そういうことを繰り返して勉強して、知識を身につけ、それを社会で生かすことができたら、そのことが生き甲斐につながるのです。
それにはまず目標。目標をしっかり立てることができたなら、なにをすべきかも見えてくるでしょう。なにをすべきかがはっきりしたら、友人や知人などの助けに支えられて努力を続ける。すると必ず道が開けます。道が開けると目的が叶い、目的が叶うと新たな挑戦への意欲が出てくるのです。そして次の目標を掲げる。こういうことの繰り返しが人生だと思いますね。
  そして、地位・名誉・給与にはこだわらない自分が納得する人生を送れたらいいのではないでしょうか。



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