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1949年創設の山梨大学は、武田信玄ゆかりの地・甲府の市街にあります。その起源は古く、1795年に開かれた「甲府学問所 徽典館」が前身という伝統校です。工学部と教育人間科学部からなる旧・山梨大学と山梨医科大学が統合し、2002年に現在の2キャンパス・3学部体制となりました。現在日本で唯一ワインの研究所を擁するほか、燃料電池やナノテクノロジーなどの研究でも高い実績を誇ります。
脳神経外科が専門という貫井先生は、統合後の山梨大学医学部初代学部長に就任。2004年には学長に就任され、現在は大学の改革やイメージアップに取り組んでいます。そんな貫井先生に勉学や研究に励んだ幼少から青年時代、医師という立場から考える教育論や、学長としての取り組みについてお話をうかがいました。
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■Profile
貫井 英明(ぬくい・ひであき)
1941年埼玉県生まれ。1966年群馬大学医学部卒業、1967年助手、1974年講師。1977年モントリオール神経研究所研究員。1984年山梨医科大学教授、1994年救急部・集中治療部部長、2000年副病院長、2002年医学部長。1997年日本脳神経外科学会脳死臓器移植検討委員会委員長や、2001年厚生科学審議会疾病対策部会臓器移植委員会委員など、臓器移植問題にも取り組む。2004年10月より国立大学法人山梨大学学長。専門分野は脳神経外科。
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数学のおもしろさを知った中学時代
私が生まれたのは埼玉県の小川町です。小川町の名産は和紙で、実家は和紙の製造機などを販売していました。現在私が使っている名刺も小川和紙に印刷したものです。
今もそうですが、小川町は自然がとても豊かです。私は少年時代、野山を駆け回ったり、川で泳いだりして毎日を過ごしました。でも勉強も好きで、ガキ大将というよりも「よく遊びよく学ぶ」タイプだったと思います。
勉強が好きだったのは、先生に恵まれたことも大きいですね。なかでもいちばん思い出深い先生といえるのが、学校の先生ではないのですが佐藤さんという方です。佐藤さんは官庁を定年退職され、小川町で寺子屋のような塾を開いておられました。私は中学生の頃に佐藤さんから誘われ、他の数人とともに勉強を教わっていたのです。佐藤さんは当時60歳を過ぎておられ、また北大出身というエリート中のエリートでしたが、とても柔軟な発想の持ち主でした。
佐藤さんが子どもたちにとくに熱心に教えてくださったのは、数学や漢詩です。たとえば1から10までの数字をすべて足していくと55になるけれど、これをひとつずつ足すのではなく、もっと簡単な方法でやってみるというようなことです。いちばん大きな数字に1を足し、それをいちばん大きな数字を掛けて、2で割ります。1から10までなら(1+10)×10÷2=55になる。1から始まる連続した数字の合計は、これで割り出すことができるのです。これを知ったときの驚きは決して忘れられません。
今でもアイデアに詰まると、当時教わった漢詩にヒントを求めることも多々あります。佐藤さんは私の好奇心や興味を引き出してくれた、いわば知の恩人といえるでしょう。
もちろん学校でもすばらしい先生にたくさん出会いました。印象深いのは中学時代の松沢先生です。今では担当教科を覚えてはいないのですが、熱血タイプのとても恐い先生だったことだけははっきり記憶しています。松沢先生の型破りなところは、生徒を殴るときはまず先に自分自身を殴ることです。「生徒が悪いということは、指導する自分も悪い」ということを、身をもって示そうとしてくださったのでしょう。松沢先生からは勉強よりもっと大事なことを教わったような気がします。
脳神経外科という新しい分野に飛び込む
医師を目指したのは父の死がきっかけでした。私が高校に入学する直前、父はまだ四○代前半でしたが、ガンのため亡くなりました。高校は当時の学区制の中で最も名門であった熊谷高校に進学しました。母は進路について、とやかくいうことはありませんでした。しっかり者で、私と2人の弟を自由に育ててくれたと思います。今は甲府で一緒に暮らしていますが、96歳とは思えないほど元気です。”明治の女性“は強いですね。
高校卒業後は東京の大学への入学を希望していましたが、結局は群馬大学に進学しました。しかし群馬大学に進学したことは人生の大きなプラスになったと思っています。
群馬大学の医学部は、全国的にみても非常に進んだ医学部です。ちょうど私がインターンを終えたときに、今でこそ珍しくありませんが、附属病院に脳神経外科が新設されました。当時の日本で脳神経外科は外科の一部として扱われ、単独で設けている大学は東大など数えるほどしかありませんでした。
私は学生時代から外科を志し、インターン時代は京大の心臓外科で多くの時間を過ごしたのですが、一方で脳は意思を決定する器官、すなわち人間らしさを司るものとして興味を持っていました。それでインターン終了後は真っ先に脳神経外科を希望しました。好奇心旺盛な性格なので、新しい分野に挑戦したかったのかもしれません。
新しくできたばかりの職場ですから、配属後は刺激的な毎日でした。先輩とも対等に議論をすることができましたし、多くのことを教わることができて、大きな収穫がありました。
もっともその分仕事はハードでしたね。現在は医療器具や医療技術の開発進歩で手術時間や手術後の管理も短く楽になりましたが、当時は2日間患者さんにつきっきりということも珍しくありません。結婚してからも、家に帰れないことがよくありました。それどころか夏休みに家族で旅行に出掛けても、急に呼び出されて大学に駆けつけたりしましたから。でも当時は医局のソファで寝ている私に、看護婦さんがそっと毛布をかけてくれたり、妻に電話をしてくれるなど、アットホームな面もありました。それが救いでしたね。
脳神経外科という分野は、いい意味で非常に狭い世界です。大規模な学会では有名な教授の近くの席順を争うこともあるようですが、脳神経外科の学会でそのようなことはありません。全員が良き仲間といった雰囲気で、意見交換や議論も活発です。新米時代の私も、大先輩にあたる先生方と随分親しくさせていただきました。
また群馬大学の講師をしていた77年には、脳神経外科の世界で”巨人“と呼ばれる偉大な先生が開設し、多くの優秀な先生がおられるモントリオール神経研究所に研究員として赴きました。世界中から優秀な医師が集まり、脳神経外科の分野で世界最先端を行く研究施設です。大学の都合もあり予定より早く1年半で戻ってきましたが、もっと研究を続けていたかったですね。モントリオールでは多くの友人もできましたし、そこで研究できたことが大きな誇りになりました。
必要なのは最先端の技術よりも人と接する能力
私は大学という場所で医師人生を歩んできました。大学病院というところは患者さんを治療することももちろん大切ですが、仕事において教育や研究が大きなウエイトを占めます。しかし本来私は現場で患者さんと向き合うのが好きで、時間があれば大学の近隣にある病院に出向いて、手術の執刀も行ってきました。学長に就任してからは、現場に立てず少し寂しい気もしますね。
脳神経外科に進んでよかったと思うことは、治療の結果がすぐにわかることです。私は動脈瘤の患者さんを多く手掛けてきました。動脈にできたコブを特殊なクリップではさむわけですが、手術中にそのコブが爆発する危険もあります。非常に緊張感を強いられますが、無事クリップできた時点で手術は成功と言えるわけです。
もっとも人間の身体は千差万別です。治療や手術には一応マニュアルのようなものもありますが、その通りにやればいいというものではありません。とくに脳神経外科の手術は、わずかな処置の差で生死が左右されます。そこで求められるのは医師としてのセンス。わかりやすくいえば、流れを読む能力や高い判断力ですね。
脳の手術というと、手先の器用さが重要だと思われがちです。たしかに脳の血管を縫い合わせるというミクロの世界ではあります。しかし実際には「器用であるに越したことはない」という程度。実は私はそれほど器用な方ではありません。でもそれをカバーするために、若い頃は研究用のラットを購入し、顕微鏡で熱心に練習をしました。本来あってはならないことですが、医療に「絶対」や「100%」ということはありません。ただ100%へ近付くために、スキルを高めていく努力は必要です。
今の学生を見ていると、専門分野の知識、技術の修得には熱心ですが、自分自身を高めることにはあまり熱心でないように感じられます。これはどの職業にも当てはまると思いますが、専門知識や技術がいくら豊富でも、優秀な医師にはなれません。教養やマナー、すなわち人間的な素養が必要です。そのためには、何事も「知る」ことです。「知る」ということで派生していくものがたくさんあるからです。
そこで学生には折を見て「いろいろな人と接して、人間の幅を広げなさい」と話しています。たとえばゲームばかりせずに本を読む。部屋に閉じこもっていないでスポーツをするなど……。私も体を動かすことは大好きで、学生のときは軟式テニスをやっていました。今も草野球の現役選手です。
年に1度、脳神経外科の草野球チームによる全国大会があるんですが、チーム名も「ドクターズ」とか、脳にちなんで「ブレーンズ」とか、なかなかユニークですよ。私は山梨大学の1番・ファーストを務めています。試合は東京ドームや甲子園球場を借りるときもありますし、元甲子園球児という先生も何人かいらっしゃいます。球場の方から「医者の道楽かと思ったら、皆さん真剣なので驚きました」といわれたこともありました。レベルは結構高いと思いますよ。
新生・山梨大学は技術や人材の宝庫
2002年に旧・山梨大学と山梨医科大学が統合し、3学部による現在の山梨大学が誕生しました。私はもともと山梨医科大学の人間ですので、工学部と教育人間科学部はいわば「他人」のような存在でした。しかし学長室があるのは旧山梨大学のキャンパスなので、2年前に学長に就任してからは、自然とそちらの方に目が向くようになりました。
学内では教授はもちろんのこと、助教授や若い助手とも積極的にコミュニケーションをはかっています。私はもともと好奇心旺盛なので、工学部や教育人間科学部の様子はとても興味深いですね。とくに自分が理数系ということもあって、工学部は興味が尽きません。昨年は様々な資料を集め分析して、高校生向けの工学部案内を自分ひとりで書き上げました。ふつうの学長はそんなことはしないと思いますが、知らない世界を覗くのが本当に好きなんです。
工学部についてもう少しお話すると、山梨の名産品であるワインや水晶の研究所があります。どちらも日本の大学では唯一の研究施設です。水晶はだいぶ昔に枯渇しましたが、その代わりにクォーツ時計に使われる人工水晶が、ここ山梨大学で開発されたという歴史があります。それから世界に誇る施設がクリーンエネルギー研究センター。燃料電池の分野で第一人者といわれる先生がおり、レベルの高い研究が行われています。またナノテクノロジーという言葉を生み出したのも、実は工学部の元部長なんです。
偏差値や知名度にとらわれない学校選びを
山梨大学では「地域の中核 世界の人材」というキャッチコピーを掲げています。これは、大学を偏差値やブランドだけで判断するのではなく、大学がどんな人材を育成することを目指しているかを評価して欲しいという教育者としての主張が込められたものです。
数ある国立大学の中で、山梨大学の規模は下から数えて何番目という状況です。率直にいって全国的な知名度も高くはありません。しかし他大学に劣らぬ歴史や実績があり、島津製作所の服部重彦社長をはじめ、多くのOBが各界で活躍されています。先程お話したように工学部では非常に進んだ研究が行われていますし、教育人間科学部も教員養成課程のほか芸術運営コースや環境科学コースといった課程を設け、いずれも優れた人材の育成に力を注いでいます。また、医学部も世界的研究成果を数多く挙げるとともに、病気の治療成績も全国トップレベルであり、優秀な医師、研究者を輩出しています。
このように山梨大学には全国的に誇れることがたくさんあるのです。もちろん我々の宣伝不足な点もあるでしょうが、これから大学を目指す皆さんは学校の中身をよく見てほしいですね。
とくに理系の立場からいえば、子どもたちに数学に興味を持ってほしいと思っています。数学にはあっと驚く発見があり、それは解けば解くほど増えていきます。数学嫌いの子どもでも、根気よく取り組めばきっとおもしろさに気付くはずです。
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世界からも注目を集める研究の数々
山梨大学は工学部と教育人間科学部からなる旧・山梨大学と山梨医科大学が2002年に統合。甲府キャンパスに旧山梨大学の2学部が、郊外に医学部キャンパスがあります。附属の研究所や大学院などの研究施設が充実。ワインや水晶といった山梨県の名産品にちなんだ研究所のほか、燃料電池やバイオマス、ナノテクノロジーといった最先端分野の研究でも注目を集めています。「地域の中核 世界の人材」というキャッチコピーの通り、地域のニーズと世界で通用する人材育成を両立させている注目の大学です。 |
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