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2007年1月号vol.354

今月のタイムス
MONTHLY SPECIAL

1. 入試直前対策
 ・高校受験編
 ・中学受験編
私の勉学時代
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関塾
関塾 タイムス

私の勉学時代

日本大学総長・理事長 小嶋勝衛先生に聞く

知力・体力・精神力を備えた
「骨太」の人間に
 大学14学部、大学院20研究科、通信教育部4学部、短期大学部7学科を擁する、日本一の規模を誇る総合大学、それが日本大学です。創立から117年という伝統を保ちながら、総合大学としての特性を活かしたさまざまな最先端の研究を重ね、その成果を実社会にも積極的に還元しています。
 幼い頃からとにかく絵を描くのが好きだったという小嶋先生。少年時代の思い出や先生のモットーである『骨太の人間』について語っていただきました。

■Profile
小嶋勝衛(こじま・かつえ)

1940年東京都生まれ。
63年日本大学理工学部建築学科卒業。
65年同大学院理工学研究科修士課程修了。
80年工学博士。専門は都市計画、建築計画。
日本大学理工学部助手・専任講師・助教授を経て83年教授。
97年理工学部長、同大学院理工学研究科長。
98〜99年、2001〜02年副総長。
05年9月総長に就任、理事長を兼務。
現在に至る。

栄光のゴム靴

 私は、第二次世界大戦が始まった年に東京・目黒の大岡山で、建築家の父と看護婦の母との間に3人兄弟の次男として生まれました。戦争中、母は学童検査のお手伝いをしていたそうで、東北大の看護学科を卒業した、当時でいう「ハイカラさん」だったようですね。私が4歳の時、宮城県・仙台市内に一家で疎開したのですが、今度は、仙台に空襲がくるとの知らせに岩手県の花泉に移り、終戦を迎えました。まだ、4歳だったので、空襲の記憶はあまり鮮明ではありませんが、それでも少しあります。それから仙台に戻り、小学校に入学しましたが、その頃はまだ防空壕から登校していた生徒もいたんですよ。
 しばらくして、ゴム靴がクラスに3足支給されることになったのですが、たった3足しかないもんだから、「疎開してきた人間の数は入っていない」という噂が流れたんですよね。先生は悩んだのでしょう。子どもたちが公平であるようにと考えて、クラスで1番になった人にゴム靴を渡すことに決めたのです。そして、仙台市の展覧会に絵が入選した私は、無事ゴム靴を手にすることができました。 両親には特別厳しく育てられたという思いはありませんが、私や兄弟は「卑怯なことはするな」「わがままを言うな」そして「食べ物には人より早く手を出すな」としきりに教えられていたことを覚えています。そういうことをすることがどれだけ見苦しいことか、世間体を考えなさい、と言うことでしょうね。このときに卑怯なまねをせず、がんばって絵を描いたからゴム靴がもらえたんだと、両親の言葉が身にしみました。
 2年生の終わりには、東京・世田谷の奥沢に戻りましたが、近所には、茅葺屋根の家があり、駅は木製という、仙台以上の田舎の風景に、これが東京なのかって驚きました。転校した先の小学校で身につけた、慣れ親しんだ仙台弁が出るとクラスのみんながからかうんです。けれども次の日、クラスで絵が一番上手だった女の子よりもうまく絵を描いたことで、みんなの私を見る目が変わり、認めてくれるようになりました。絵を描くのがとても好きになった、私の原点ともいえる出来事です。


画家を目指すか進学か…

  高校は、旧制の東京府立高等学校が変身した東京都立大学附属高等学校へ入学。当時は一学年男子100名女子50名という、都立の普通科高校ではいちばん小さい規模の学校でした。高校には、有名な彫刻作品がたくさんあり、美術の先生もすばらしい先生でした。私は早速、美術研究部に入りました。そのうち毎日油絵の具の匂いをさせて帰るようになるほど、すっかり絵の世界にのめり込んでしまったんですよね。そんな私にある日、先生が「絵描きになるか」と言いました。絵描きを目指す大学を受験するか、普通の大学に進学するか、本気で悩みました。もちろん絵の勉強をしながら普通の受験勉強もしていたんですが、先生から今度は「これから毎日6時間ずつ絵を描いてみるか」といわれたんです。1枚描くのに6時間ほどかかる淡彩画()を1日に1枚仕上げてみろ、ということでした。さすがにこれはなかなか決心がつきませんでした。先生の言うとおりにすれば、本気で絵描きをめざすことになります。でも絵描きで食べていけるほど、世の中は甘くないことも分かっていましたからね。悩みに悩んで答えが出なかったら、父と同じ建築家になろうと思ったり、演劇の舞台大道具の手伝いをしたり……。あれもこれもと興味が湧いてきて、いっそ1年浪人して考えてもいいかもしれない、とまで思い始めていました。
 ところが、あと十日程で入試、という日の晩に、医学部の大学院に通っていた、すべての面で優等生の兄が高熱を出して倒れてしまいました。両親は大慌て。私も浪人することを考えていたとはいえ、それから1年間家の手伝いや兄の看病などで、受験勉強どころじゃなくなってしまったのです。先の見えない衝撃的な出来事でこれにはさすがに考え込んでしまい、自分の進路が見えず悶々とした日々を過ごしていました。しかしそのおかげで自分の将来について、あらためて考える時間を持てて、開き直ることができたんです。そして、「大学に行って建築の勉強をしよう」と決心しました。

淡彩画……鉛筆によるデッサンやスケッチの上に透明水彩絵の具を薄く重ねた絵画

ひと皮むけた模型制作

 大学に入ったら、しゃにむに図面をひきました。けれど自分に不満が多すぎるのか、何かおもしろくないんです。気持ちを切り替えるため丸坊主にしたこともありますし、勉強もし、普通の学生の何倍も図面を引きました。気分転換に絵を描いたりもしましたが、どんどんおもしろくなくなってくるんです。理由は分からないまま、とにかくそれを発散するかのごとく、友人とともに剣道部をつくり、剣道で体を動かしていました。
 そんなあるとき、設計・製図の教授、小林美夫先生から「模型を作るから手伝いにきてほしい」と自宅に電話がかかってきたんです。詳しいことが分からないまま先生のもとへ向かうと、図面から50分の1の縮尺の模型を作ってくれ、とのこと。実はその図面、名建築ではあるのですが、建設業者もお手上げのとても難しい図面だったのです。小林先生から、図面の説明を1時間ほど受けた後、先生は「じゃあ、明日からお願いしますね。今説明したもので分からないようなら、建築家にはなれませんよ」と言って去っていきました。それから、友人とともに寝る間も惜しんで必死でその模型を完成させました。このときに、自分はひと皮もふた皮もむけて、さらに建築にのめり込むようになったんだと思います。
 この建物は大学のセミナーハウス(工科山の家)で、名建築として海外の建築雑誌にも紹介されました。しかし、地元の自治体から提供されていた敷地は、後に崖崩れが心配されるようになり、27年後に閉鎖されました。その中のインテリアとして備え付けていた暖炉といくつかの備品は、現在、新潟県にある日本大学の八海山セミナーハウスに移されてそのままあるんですよ。

ひとつのことを極めるために

   建築の設計を勉強していたとき、建築家の丹下健三さんが、海上都市計画「東京計画1960」を発表しました。この時期は建築家たちが都市に目を向けていた時代だったので、都市計画をちゃんと大学院で勉強しようと決めました。その時、故・市川清志先生に教わろうと思っていたら、先生から「国家公務員採用試験・上級職(甲種)」という試験に合格すること、という条件が課されたんです。今まで私はデザインばかり勉強していたので、公務員なんて考えてもみませんでした。けれども、市川先生に教わりたかったので試験を受けると、運良く通ったんです。以来、都市計画にどっぷりはまってしまい、市川先生には24年という長い間、ご指導いただきました。
 大学4年のとき、家計簿を12年かけて調べて作った都市計画の博士論文を読む機会がありました。それは集合住宅団地の建設に実際に役立つとても優秀な論文でした。私は大きな刺激を受けて、卒業研究で集合住宅団地の周辺地域にできる自然発生店舗のでき方を調べる研究に着手しました。卒業後は大学院に進学して研究を続け、7年間いくつもの住宅団地を調査しました。一戸一戸を地図に表しながら調査を続けるうち、店の売り上げが知りたくなってきたんです。でもどこの店でも自分の店の売上や税金なんて教えたがりませんよね。こんなふうに、目に見えるものだけ追いかけると限界がある、見えないところのメカニズムがわからないと本当の研究ができない、と思い知らされたのです。
 大学院で学んでいたときには、日本初の高速道路が建設されることに伴い、東京・目黒にある「権之助坂商店街」の再開発計画案を出してほしいという要請がありました。都市の実態調査・アンケートなどを分析し、潜在購買力を算出したり、商売が成り立つようなデータを試算するなど、膨大な資料を作成し、図面にしたのです。とにかく大変な作業で8ヶ月くらい研究室に缶詰め。ほとんど家に帰っていませんでしたね。
 学位論文では多変量解析という分析の方法を駆使して、繁華街の研究を12年やって工学博士になりました。その中の分析の1つで100分間、540人が銀座で一斉に目の前を通る人の数を数えたんですよ。すごいでしょう? 540人なんて人数で調査をするなんて、日大でしかできないんじゃないかと思います。私の授業を受けていた3、4年生に協力してもらったのですが、これは、都市計画に役立つ計量地理学の分野に貢献する貴重なデータとなりました。
 いろいろな研究をするうちに、その地域のことを把握するために、社会学や地理学を勉強したり、多変量解析や統計学をより理解するために、数学を勉強し直したりしました。友人の先生は韓国の建築を学びたいと、韓国語を勉強していました。ひとつのことを極めるためには、その対象だけを勉強するのではなく、その周りのいろいろなことを学ぶことで、より深く理解できるのですね。


食わず嫌いにならず、積極的に

 最近、すぐ「キレ」たり、「ヘコむ」ような人が多いと聞きます。私は、そうならないよう、若い人たちに知力・体力と時代を生き抜く精神力がしっかり備わった「骨太」の人間になってほしいといつも思っています。また、知力と精神力は、しっかりした体力があってこそ身に付くものだと私は考えています。きちんと食事や睡眠をとり、体を動かして体力をつけながら、知力や精神力も鍛えてほしいものです。
 そして、どんな教科でも、自分だけに語りかけてくる部分、引っかかるものが必ずあります。少しの勉強だけで、食わず嫌いにならずに、いろいろな教科に積極的に取り組み、のめり込むことが大切です。そして自分が熱くなれるようなところにまで頑張って楽しさを見つけると、スポーツも勉強も、必ず上達できるのですよ。



コラム
産官学連携知財センター「NUBIC」

日本大学産官学連携知財センター(NUBIC)は、わが国の承認TLO【technology licensing organization】 (「特定分野重点技術移転事業」大学や研究機関などの研究成果や特許を民間の製品開発等に供与する事を認定された機関。)第1号として活動を開始して以来、学内外における基盤を固めつつ、公的機関、関係自治体、他大学のTLOとも連携し、日本大学での研究・技術などの幅広い活用に向けた活動を展開しています。

プレゼント

日本大学のオリジナルグッズ(クリアファイルとクリップ)を3名の方にプレゼント。投稿用ハガキで申し込んでください。



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