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2007年3月号vol.356

今月のタイムス
MONTHLY SPECIAL

1. 新学期に習う内容と勉強法
年間学習スケジュールのポイント!
 ・高校生・中学生
 ・小学生
私の勉学時代
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関塾 タイムス

私の勉学時代

上智大学学長 石澤良昭先生に聞く

探り、突き詰めていくことに
独自の発見があるんです。
 上智大学は、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会宣教師・フランシスコザビエルの 都に大学を といった願いに基づいて1913年設立されました。建学の精神は Men and Women for Others, with Others (他者のために、他者とともに生きる)。国際的なフィールドで活躍する著名人を多く輩出しています。その中心人物の一人である石澤良昭学長は、カンボジアにあるアンコール遺跡研究の世界的権威で、日本が世界に誇れる数少ない人文科学系の研究者です。今回は、研究と大学経営に東奔西走する石澤先生に貴重なお話を賜りました。

■Profile
石澤良昭(いしざわ・よしあき)

1937年北海道生まれ。 文学博士。
61年上智大学外国語学部フランス語学科卒業。
68年中央大学大学院文学研究科修士課程修了。
71年同大学院文学研究科博士課程満期退学。
71年聖マリアンナ医科大学専任講師。74年同大学助教授。
77年鹿児島大学助教授。80年同大学教授。
82年上智大学外国語学部教授。83年同学部アジア文化研究室室長。84年同大学アジア文化研究所所長。95年同大学外国語学部長。2002年同大学アジア人材養成研究センター所長。
05年同大学 学長に就任 。
現在に至る。

極寒の地でスキー、スケートに明け暮れる

 私は北海道の帯広市で生まれ、高校まではそこで暮らしました。山と雪に囲まれて育ちましたので、スキーやスケートは大の得意。冬は、前日にグラウンドに水をまいておくと、朝には天然のスケートリンクができあがっていたので、このシーズンの体育の授業は、ほとんどスケート。また、遠足もスキーツアーでしたね。
 北海道に来たのは、祖父・祖母の時代です。開拓者として入植してきて、「道産子(北海道生まれ)」になったのは私の父母の代からです。なお、父方の祖父は富山から、祖母は四国から、それぞれ北海道に来たということです。
 実家は、もともと農業を営んでいたのですが、マイナス30度の極寒の地で、しかも1年の半分くらいは冬ですから、小豆やビート(てん菜)くらいしか育たず、生活も厳しかったようです。そこで、たまたま阿寒国立公園の屈斜路湖の近くで農地から温泉が湧き出たので、父はその権利を買い、ホテル経営を始めたのです。20人泊まれば満杯になるくらいの小さなホテルでしたが、夫婦二人で切り盛りするには適当な大きさだったのでしょう。
 私は姉と妹にはさまれた三人きょうだいの真ん中の男子でしたので、父はホテル経営を私に継がせるつもりでした。そこで、ホテルの経営者になるために、また、父も母も開墾の手伝いであまり教育を受けられなかったこともあり、子どもにだけは学問を身につけさせたいと、ともに大学進学を強く勧めてくれました。なにせ、父は祖父が若くして他界したために子どものころから祖母と一緒に農業を手伝っていたので、小学校すらろくに通えなかったんです。母も、12人きょうだいの一番上で母代わりをしていましたから、少女期から家事を手伝ったり、弟妹の世話をしたりで、勉強どころではなかったんですね。まさに働き者の見本のような母で、あまり口うるさく言われた記憶などはありません。ただ 人様に後ろ指を指されるようなことだけはしてはいけません と言われていたことが印象に残っていますね。


恩師に同行してインドシナへ

高校時代は英語が得意でしたし、語学に興味がありました。また、当時はまだ文化、経済の先進地域としてヨーロッパへの憧れもありました。そこで、大学は英語プラスαの外国語を学ぶべく、外国語教育に実績がある上智大学外国語学部フランス語学科に進学しました。
 入学後、「フランス海外史」という講義で、運命的な恩師との出会いがありました。担当教官は、神父でもあったポール・リーチ教授というフランス人。この先生は非常に破天荒で、同窓の小説家・井上ひさしさんの『モッキンポット師の後始末』のモデルにもなった人物なのですが、妙に私とウマが合ったのです。リーチ先生の授業では、フランスが海外で行う事業を紹介していたのですが、あるときフランス人研究者のアンコールワット研究の功績について説明されました。私はこれにとても興味を持ち、先生に質問したり、フランス語文献を読みあさったり、まだ見ぬ遺跡に夢をふくらませました。
 そんなある日、ポール・リーチ先生から「今度、ベトナムにフランス語を教えに行くから同行しないか」という打診があり、同じインドシナ半島にある隣国の遺跡を見る絶好の機会と考え、一緒に発ちました。先生がフランス語を教えている間はベトナムで待機し、終わると一緒にカンボジアに入国しました。いよいよ夢に見たアンコールワット遺跡の前に……。もう文献で読んだレベルとは比べものにならないほどの感動と衝撃が込みあげてきました。以来、現在に至るまで、アンコールワット研究を続けています。

北海道で教員生活送るも「熱」は治まらず

 ホテル業を継がせるという親の意向もありましたので、大学卒業後、いったん帯広に戻り、地元の短大でフランス語を、高校で英語を教える教師生活も送りました。しかし、なかなかアンコールワットへの思いは断ち切れませんでした。そんなある日、文部省(現・文部科学省)のアジア派遣の制度にカンボジアも入っていたのを見つけ、これに応募し、合格してしまいます。この段階では、父も「ホテル経営者としての見聞を広めるためならいいだろう」と同意してくれました。
 しかし、思わぬことが起こったのです。短大と高校の教師を辞めたにもかかわらず、出発予定だった1970年の3月に、カンボジアで軍部によるクーデターが起こり、行けなくなってしまったのです。こうなると、私の「アンコールワット熱」は、さらに高まるばかりでした。研究ができる環境を探したところ、幸い神奈川県の聖マリアンヌ医科大学のフランス語教員の席があったので、そこで6年、教鞭をとります。
 ただし、私の研究テーマはフランス語教育ではありませんので、よりよい研究環境を模索していました。ちょうど鹿児島大学に歴史研究者のポストがありましたので、これに応募し、採用されます。自分としては、日本で最南端の出国管理局があるのも鹿児島ですし、なにしろ「カンボジアのアンコールワットにより近づく」という意識も働いて、この大学での勤務は非常に喜ばしいものとなりました。一方、事業継承の当てが外れてしまった父にとっては、落胆が大きかったようです。それゆえ、説得するためにも「地元の国立の帯広畜産大学に赴任する前の段階として、同じ国立大学にいっておく必要がある」と苦しい言い訳をしましたが。

再び母校へ、そして本格的遺跡研究開始

     鹿児島大学時代には、内戦によってアンコールの遺跡が破壊されているというニュースが頻繁に報道されるようになりました。そして、1980年、現地に赴き、調査したいという熱意は頂点に達してしまいました。当時国家公務員の渡航が禁じられていたカンボジアに国立大学の職員として入国しました。運悪く、格好のニュース素材になる「西側(資本主義側)の研究者が調査に入った」という情報で、私のことが大きく報道されてしまいました。そして、帰国後、これ以上大学に迷惑をかけるわけにもいかないと覚悟し、鹿児島大学の教授職を辞めることに決めました。
 民間の研究機関に入ろうかと考えている矢先、母校の上智大学にアジア文化研究所ができたのです。そのとき、大学にはまだポール・リーチ先生も健在で、「そんな事情ならキミの研究を生かすべく母校に戻ってこないか」という先生の進言もあり、約20年を経て、母校に戻ることになりました。
 そして、この80年から93年にかけて現地で本格的な調査に乗り出しました。実は、この14年の間、世界で唯一、わが上智大学の調査団だけがアンコールワットの調査をし、データとして残しているのです。したがって、私たちが収集・分析したデータについて、世界中のアンコール遺跡研究者が注目しているわけですね。
 とはいえ、私たちは「カンボジア人による、カンボジア人のための、カンボジアの文化遺跡保存・修理」を念頭に置いているので、日本から調査団が赴くだけではなく、現地の人材育成にはとても力を入れています。東京の上智大学キャンパスにも、修士課程、博士課程ともに、現地から数名ずつ受け入れています。

過去の研究成果を覆す発見

 こうした人材育成プロジェクトの演習の途中に驚くべきことが起こりました。2001年のこと、穴を掘り、石を積み上げる訓練をしているとき、たまたま合計二七四体の仏像を発見することができたのです。この偶然の発見は、それまでの定説をひっくり返す証拠になっています。今までのフランス人研究者たちの見解では、アンコール王朝の末期は自然に衰退していったと思われていたのですが、そうではない可能性が出てきたのです。これは、私が独自に調べた中国の文献とも一致します。
 この辺りに研究の面白さがあります。そして、これから中学、高校、大学と進む皆さんに訴えたいこともここにあります。自分の興味を持ったことを、とことん突き詰めていく。ただ前の時代の人が作った理論や技術に乗って行くのではなく、自分自身が抱いた問題意識をとことん追求していく。そこに、独自の発見があるんです。
 学問だけではないと思います。人生でも、とにかく自分のやりたいこと、好きなことを妥協なく追求していけば、能力も身につくし、場合によってはその道のトップにもなれる。それを追求する場として、大学があるのです。そして、自分のやりたいことを見つけるには、環境を変えることも、親離れをすることも必要です。さまざまな新しい出会いを通して、逆に自分を見つめなおす機会としてほしいのです。
 サン・テグジュペリの『星の王子さま』は、「本当に大切なものは見えない」と言っていますが、この言葉には大きな学びがあります。仲良しの友達との友情や家族の暖かな気持ち、配慮といったものは、ボーっとしていては、見えないのです。遺跡調査でもそうですが、「探る」という強い意識を持って社会を見ていけば、必ず新しい発見があります。



コラム
国際教養人を育成

2003年、上智大学比較文化学部の「日本と世界を結ぶ国際教養教育の先駆的取組」が、文部科学省「特色ある大学教育支援プログラム」に選定されました。
この取組は、「激動する現代世界に向かって広く窓を開き、人類の希望と苦悩をわかちあい、世界の福祉と創造的進歩に奉仕する」という上智大学の教育理念に根ざし、日本と世界を結び積極的に国際社会を担う国際的教養人を育成することをねらいとしています。2002年に世界最高水準の研究教育拠点として「21世紀COEプログラム」に選定されたことに続き、高い評価を得ています。


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