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2007年5月号vol.358

今月のタイムス
MONTHLY SPECIAL

1. 2007年度中学受験をふり返る
 ・中・高入試問題
 
私の勉学時代
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関塾
関塾 タイムス

私の勉学時代

岡山大学学長 千葉喬三先生に聞く

辛いとき、苦しいときこそ、飛躍のチャンス。
たくましさを身につけて欲しい。
 2004年に国立大学法人へ移行した岡山大学で、法人化後設置された学長選考会議で選考された初の学長として就任した千葉喬三先生。全国に先駆けて大学教員の教育や研究業績の
通信簿 となる教員の個人評価を導入したり、既存の学部・学科の枠組みにとらわれないオンリーワン教育を目指した「マッチングプログラムコース」の設置など、新しい教育体制のシステムづくりに取り組んでいます。
 「幼少の頃からいたずら好きで、決して優等生とは言えませんでした(笑)」と語る千葉先生ならではのユニークな持論や、長年生態系管理学の研究に携わってきたなかで見いだした教育に対する熱い思いを、幼少期から大学時代の思い出も交えながらお話しいただきました。

■Profile
千葉喬三(ちば・きょうぞう)

1939年兵庫県生まれ。
65年京都大学大学院農学研究科修士課程修了、農学博士。
69年高知大学農学部助手、74年同学部助教授を経て、同年11月に岡山大学農学部助教授に。
同大学で、86年より農学部教授、94年より97年まで農学部長、2000年から大学院自然科学研究科教授として活躍。
さらに2001年副学長に就任後、国立大学法人移行に伴う制度設計に携わり、2004年国立大学法人岡山大学理事・副学長を経て、2005年6月より同大学学長就任。
現在に至る。

幼い頃に終戦で学んだ教訓

 私が生まれたのは、兵庫県の神戸市。1歳の頃に貿易商を営んでいた父に連れられて家族で中国大陸へ移り住み、5歳まで九江という揚子江沿いの町で暮らしていました。父は、繊維、塩などいろいろなものを手広く扱っていて、今のお金に換算すれば年商何百億という大規模な商売をしていたようです。家の前の揚子江には、いつも父が所有する船が数えきれないほど浮かんでいました。中国語を覚えるのが早かった私は、よく父の商談を通訳していたそうです。今ではすっかり忘れてしまっていますけどね(笑)。
 当時の私は、いわゆる お坊ちゃん 。周囲にはいつも5人くらいのお世話係の大人がいました。実は、トイレにひとりで行った記憶がなくて。上等な朱塗りのおまるが部屋に置いてあって、そこへ用を足すと数分後にはきれいになっているんですよ。叱る大人がいないから、いたずらもやりたい放題でした。
 ところが、日本が第二次世界大戦に負けて終戦。一瞬にしてすべてが変わりました。家の地下室いっぱいにあった日本軍が発行した「軍票」と呼ばれる紙幣は何の価値もない、ただの紙切れに。翌年5月に日本へ無事に引揚げるまで筵を敷いただけのような小屋で生活し、いつも生命の危険と隣り合わせの毎日でした。母が「万が一のときのために」と、紙幣を小さな金塊に替え、私たち子どもの衣服に縫い付けてくれていたおかげで、家族全員が飢え死にせずに済んだんです。
 終戦の翌年に無事、日本に引揚げてからは、京都で暮らしました。一度はもともと住んでいた神戸へ立ち寄ったんですが、辺り一面が焼け野原で、家の痕跡すら残っていませんでした。喪失感にうちひしがれたその足で、祖父母が暮らす京都へ向かったんです。
 それまで価値があるとされていたお金、当たり前のようにあると思っていた家、ちやほや甘やかされて育った環境、すべてが終戦を境に、まさにひっくり返ってしまった。その経験のおかげで、今でも妻に怒られるほど、お金に執着がなくて(笑)。カタチだけの物事にとらわれすぎてはいけない、という教訓を幼くして学ぶことができたんです。


やんちゃ坊主だった小学生時代

  小学校から大学院を卒業するまでは、ずっと京都暮らし。仁和寺や竜安寺がある洛西のエリアで、石庭があることで有名な竜安寺にしょっちゅう忍び込んでは池の魚を釣って、お坊さんに「また、おまえか!」と怒られるようないたずら常習犯でした。当時はまだ車なんて走っていなくて、馬が荷車を引いていた時代。道路に落ちている馬糞を見つけては往来の人にぶつけたり、近所の家に放り投げたり。とんでもない子どもでしょう(笑)。大きな家があれば、勝手に庭樹に登ってターザンごっこをしましたし、ヘビをつかまえてきては自分の首に巻き付けて、人を驚かせていました。およそ考えつくいたずらは、ほとんどやり尽くしたんじゃないでしょうか。いたずらをするたびに、母は学校や迷惑をかけたご近所へ、しょっちゅう謝りに行ってましたし、父にも毎日のように叱られていました。だけど、人に迷惑をかけること以外については寛容で、「もっと勉強しなさい」とか「将来はこういう道に進みなさい」とか頭ごなしに強いられたような記憶はありませんね。
 だから、勉強らしい勉強なんてほとんどしなかったし、大きな声では言えませんが、予習・復習をやった試しがない(笑)。でも、不思議なことに、なぜか成績は良かったらしいんです。今思えば、貧しくてノートを買うお金もなかったから、頭で覚えて理解していくクセが自然と身に付いたのかも知れません。
 考える楽しさを学んだという点では、小学4年生のときに出会った担任の先生の影響も大きいですね。その先生にとって、私たちが初めての教え子で、とにかくいつでも真剣勝負で向き合ってくれました。例えば、当時、鶴亀算という和算の授業があって、これを解くためにはコツが必要なんですが、それがさっぱり掴めず、私をはじめ大勢のクラスメートが苦しんでいたんです。すると、先生は鶴をX、亀をYに置き換えてわかりやすく教えてくれたんです。今でいう二元方程式ですよ。おかげで、こんなに簡単に解けるのか! と、それまで苦痛で仕方なかった鶴亀算がとたんに面白くなってねぇ。先生は、小学生の授業だからという常識にとらわれず、子どもたちがいちばん納得できる方法を必死になって探ってくれたわけです。自分がいちばん納得できるわかりやすい理屈で、物事を考えたらいい、という学問の基本を、そのとき初めて教わった気がしています。その先生の影響もあって、中学へ進学する頃には、漠然とですが「将来、僕も先生になりたい」と思うようになっていました。

考える楽しさを知り、教育の道へ

 もう一つ、私の人生に大きな影響を与えてくれたのが、京都大学の3回生のとき、専門課程で出会った先生の存在。その先生の口癖が「それ、ほんまけ?」でした。それって、本当なの?という意味の京都の方言なんですが、例えば、講義でも、先生の質問に教科書に沿って答えると「それ、ほんまけ?」と必ず聞き返される。「だって、教科書にもそう書いてあるし、みんな知ってることだし…」と反論すれば、「教科書を書いた人、ぜんぶに直接聞いたのか? みんなって誰や?」と突っ込まれるんです。へ理屈に聞こえるかも知れませんが、要するに、何に対しても「なんで?」という疑問を持つ姿勢が大切ということなんです。特に、私が研究してきた自然科学の分野では、知識で得たものと事実の間に、絶えず誤差がつきまといます。実験をしても教科書通りの結果が出ないことがしょっちゅうあります。でも、そこで、何の疑問も持たずに「教科書と違う結果が出たから間違いだ」と結論づけてしまうのではなく、「なんでこうなるんだ?」という疑問を持ち、そのことを突き詰めていくうち、本当の意味で「考える力」が身に付き、知識と真実とのギャップを埋めるような、新しい解釈や法則を発見することができるんです。
 その先生もそうですが、京都大学には人の言葉をそのまま信用しない伝統みたいなものがありましてねぇ。へそ曲がりが多いんです(笑)。でも、その伝統こそが、「京都学派」と呼ばれる偉人たちが育った土壌でもあるんですよ。当時、梅棹忠夫先生(生物学者、民族学者で、国立民族学博物館・初代館長)は、週1回ご自宅を学生たちに開放していて、色んな学部の生徒たちが勝手に集まり、色んなテーマについて意見を交換するサロンになっていました。何が議題になるのかは、そのときになってみないとわからないユニークなもの。先輩も後輩もなく、誰もが自由に発言できる雰囲気がとても好きで、私も毎週のように覗いていました。物事を考えるのに、上下関係のしがらみや、学問の領域なんて関係ない。大学生活で学んだことが、私の教育者としての原点でもあるんです。

生物学と教育の意外な接点

 教職に就いてからは、学問の研究もさることながら、「教育とは何だろう?」という疑問を絶えず持つようになりました。生物学的に見ても、猿などのほかの動物も生きるための術を教えることはしますが、知識や知識そのものを見つける方法を伝承していくことができるのは人間だけ。人間がほかの生物とは違う存在であり続けられるいちばんの理由は、「教育」にあるとも言えます。
 特に日本は「教育」によって、過去の大きな転機を乗り越えてきた民族でもあります。その最もわかりやすい例が、明治維新。短期間で一気に近代国家に変わることができた背景には、江戸期の初等教育である「寺子屋」の存在が不可欠であると私は思っています。鎖国など、諸外国から取り残されたようなマイナス面ばかりが言われていますが、その間に、大きな戦乱もなく、庶民レベルまで教育文化が浸透したからこそ、あっという間に明治維新が起こったのではないか、と。「知識」や「発見」といった、今でこそ聞き慣れた二字熟語ができたのも、ほとんどが明治維新の直後。この言語センスも、江戸の初等教育で漢文や白文を学んでいたからこそ磨かれたもの。ヨーロッパの文化を受け容れていくなかで、独自の漢字を発明するという創意工夫をした凄い民族なんですよ。
 長年、生物学を研究してきたからこそ言えることが、もう1つあります。少子化問題について、ネガティブな発言ばかりが目立ちますが、生物学的に見れば、ある意味、当たり前の現象なんですよ。かつて、子どもが大勢生まれたのは、成人まで生きている確率が低かったから。医療を含めた社会システムの充実が、子どもの生存率をあげた。だから、子どもをたくさん産む必要性もなくなっただけのこと。だからこそ、社会が発展した現代は、個人個人がいかに子どもを育てるか、という考え方から、社会全体でいかに次世代を担う子どもを育てるか、という考え方に焦点を移すべきだとも思っています。


小中学校時代の勉強の大切さ

 かつて私自身もそうだったように、受験勉強は、次々とクリアしなければならない課題の連続。皆さんも、「こんなこと覚えて何になるの?」と疑問に思うこともあるでしょう。でも、今は精一杯、覚えることに専念してください。皆さんは将来、必要となる最低限の知識を吸収している大切な時期なんです。しんどい、辛い、と思ったとき、ジャンプする前に身を屈めている自分をイメージしてみてください。大きく飛躍するための力をためている時期なんだ! と思える強さを身につけてください。
 でも、覚えるための勉強は、高校まで。大学へ進んでからは、パッと頭を切り替えて、自分が何になりたいのか、何がしたいのか、という目標をしっかり考えて欲しい。
 勉強は、料理と一緒です。材料がなければ、料理はできません。料理をするための材料集めを今、皆さんはしているんです。そう考えたら、色んな材料を揃えておきたくなりませんか? 集めた材料が多ければ、作れる料理のレパートリーも増えます。作り方を工夫することで、ひょっとしたら誰も考えつかなかった新しい料理が生まれるかも知れません。そんな風に考えたら、勉強することは決して苦しいことじゃない。自分自身の未来を豊かにしてくれるだけでなく、人も笑顔にすることができる、とても楽しいものなんですよ。
 人は必ず誰かの影響を受けて育ち、また、誰もが人に影響を与える側でもあります。自分以外にも人間がいて、それぞれの人が自分と同じ価値を持って生きているんです。決して、自分ひとりで生きているんじゃないということを、ぜひ知っておいて欲しいですね。



コラム
「知」の創成を目指して

11学部から成る岡山大学では、2005年の新体制後「人類社会の持続的進化のための新たなパラダイム構築」をスローガンに、さまざまな取り組みを行っています。所属する学部や学科などの専門分野で学んだ知識を、さらに広い視野で有効活用できる能力を育成する目的で、各学部が定めているカリキュラムとは別に、第3のカリキュラムともいえる副専攻コースが設置されています。また、「学生参画による教育改善システム」や、「地域社会に密着した子育て支援を目指す大学コンソーシアムによる幼稚園教員の育成」、「いのちを守る環境学教育」などへの取り組みなど、特色のある教育や研究支援を行っています。


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