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2007年11月号vol.364

今月のタイムス
MONTHLY SPECIAL

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関塾
関塾 タイムス

私の勉学時代

国際基督教大学学長 鈴木典比古先生に聞く

学問とは、他人と対話し、
知識や思いを共有しながら
深めていくものです。
 1953年の開学以来、国際基督教大学は少人数制による「リベラルアーツ教育」によって世界を舞台に活躍する人材を輩出(はいしゅつ)してきました。リベラルアーツでは、思考の自由を重んじ、主体的に自分の考えを構築していくことが求められます。また、「国際性」を重視しているのも特長で、国連など国際機関で働く日本人職員のなかでは、同大学卒業生が一番多いといわれています。
 自由闊達(かったつ)な雰囲気あふれるキャンパスで、学生に気さくに声をかける鈴木学長。独自の英語マスター法から、自身を支えてくれた恩師への思いを語っていただきました。

■Profile
鈴木典比古(すずき・のりひこ)

1945年栃木県生まれ。
68年一橋大学経済学部卒業。
銀行に勤務の後、70年一橋大学大学院修士課程入学。
73年同大学博士課程2年目に米国インディアナ大学経営大学博士課程に留学。
78年インディアナ大学経営学博士(国際経営学)。
ワシントン州立大学経営学部助教授、同大学同学部準教授を経て、イリノイ大学経営大学院助教授。
86年国際基督教大学教養学部準教授、教授、国際関係学科長、学務副学長を経て、2004年より学長に就任。現在に至る。

商売の原点を学んだ幼少時代

 生まれは、栃木県の黒磯町(くろいそちょう)です。山の中の田舎町でした。父は、職業軍人を経て、祖父のこんにゃく製造業を手伝っていたんですが、私が小学校2年生のころから雑貨屋を始めました。ようはなんでも屋ですね。私も学校から帰ると、お店に出てお客さんに物を売ったり、自転車で配達したりしていました。配達は遠いところだと4〜5キロ先ぐらいかな。砂利道をお豆腐やこんにゃくが入った木箱や野菜なんかを積んでね。こんにゃくって重いんですよ。坂は急だし、雨の日はとくに大変でしたね。
 いまでも覚えているのは、商売を始めた日の夜。両親の会話を盗み聞きしたんです。初日の売上が2000〜3000円ぐらいだったのかな。商売は仕入れ値と売値の差額である粗利(あらり)が儲け(もうけ)になります。生鮮食品だと4〜5割ぐらいは鮮度が悪くなって捨てるので、月に1万2000〜3000円ぐらいの収入があればなんとかやっていけるんじゃないか、と親たちがボソボソと話している。
 子ども心に 日銭で商売する というのはこういうことなのか、と。商売の原点をそこで学んだわけです。あと、お客さんの姿を見かけたら、反射的に「いらっしゃいませ!」と声が出るようになりました。いまでもキャンパスで学生や先生に会うと、遠くからでも必ず私から「おはよう」「こんにちは」と声をかけるんです。これも子どものころからの習性でしょうね。
 もちろん、店の手伝いばかりしていたわけではなく、町内のガキ大将を先頭に遊びにも行きました。春はベイゴマやビー玉遊び、夏は川で水泳。日焼けで背中の皮が3回むけるぐらい真っ黒になっていました。秋になると、仕掛けを作って鳥を捕まえに行く。冬は、ソリ遊び。季節ごとに、遊びが決まっているわけです。毎日、飽きもせず、同じ遊びをくり返していましたね。
 勉強ですか? そんなに熱心じゃなかったかもしれません。両親は商売に追われていて、店の手伝いをしろとは言われましたが、勉強しろと言われた覚えはありません。


やみくも勉強で英語をマスター

  転機が訪れたのは中学時代です。じつは、中学校に入って引いた風邪をこじらせましてね。ずっと治らず微熱が続いたんです。どうやら結核ではないかと言われ、5月から12月ぐらいまでは、1週間休んでは、学校に行き、また休みのくり返し。当時、結核は死に至る病気でした。医療費もかかるし、子ども心にもどうしようかと思った記憶があります。
 2年生になって体力も回復し、学校にも行けるようになりましたが、問題だったのは勉強。とくに英語は基礎的な授業をまったく受けないまま2年生になってしまった。遅れをとってしまったとショックでしたね。
 そこで私がやったのが、 やみくも勉強 。理屈は抜きにして、教科書にある例文を全部暗記したんです。文法は一切考えない。模範英文を手で書き、目で見て、声に出して読む。人間の五感のうち三感に訴えてマスターしていきました。
 じつはこの勉強法が後々功を奏しました。頭の柔らかい幼児期は、理屈はわからなくとも、耳で聞くだけで言葉をどんどん覚えますよね。それと同じ。ここでひたすら暗記したことが、後に大学やアメリカに留学したときにも役立ちました。
 これを機に成績は飛躍的に伸びました。当時、定期テストの結果が廊下に張り出されると、学年で260人ぐらいいるうちの10番辺りにはつけていました。競争は嫌いだったけれど、努力が結果として表れたことがうれしかったですね。英語だけは独学で先へ先へと勉強していました。そのせいで、先生の言うことはまったく聞いていなかったんですが(笑)。私にとって初めての成功体験でしょうね。


恩師との出会いが人生を切り拓く(きりひらく)

 高校は、大田原高等学校に進学しました。ここで、私は人生の恩師といえる先生に出会います。入学式の日に、一年生全員が集められ、こう言われました。「君たちの入学試験の成績は、近年稀(まれ)に見る悪さだった。このままで大学に行けると思うな。3年間必死に勉強せよ」と。そして、すぐに課外授業がスタートしました。この指導教員が河又恭一先生。当時、31歳の情熱あふれる先生でした。おかげで勉強に追われる3年間でしたが、先生の情熱にほだされる形で、生徒全員頑張ろうという熱気にあふれていました。
 高校時代も、英語の成績は良かったですね。私は黒磯から大田原まで電車通学をしていましたが、その行き帰りの電車に乗っている片道25分、1日50分が私の英語の勉強時間でした。それ以外に受験勉強をしたことはありません。このときも、ただひたすら英文を暗記していました。
 この間、当時の高等学校時代の友人で集まって話したんですが、同じ電車通学をしていた連中が、「鈴木が電車で英語の教科書を開いているのを見ると、イヤ〜なプレッシャーを感じたよ」と口々に言う(笑)。私自身は、そんなふうに見られていたなんて思いもしなかったけれど(笑)、集中力はあったのかもしれません。
 大学は一橋大学経済学部に進学しました。ここでも私はすばらしい恩師に出会います。大学卒業後、一度銀行に就職したんですが、この職場で一生を過ごしていいものなのか、という青臭い考えにとらわれてしまいましてね。もう一度大学に戻って勉強しようと考えたんです。
 一度決心すると、いてもたってもいられず、何のアテもなく大学に行ったら、ゼミの教授だった板垣与一先生が「自分のところに戻って来い」と言ってくださいました。試験を受けて修士課程に入学するのですが、そのとき板垣先生が言ったのが「これからは国際ビジネスの時代だ」と。
 当時、多国籍企業という言葉はありませんでした。しかし、これまで勉強していた貿易理論はもう古い、多国籍企業に関して勉強せよ、と。時代の先を読んでいたんですね。しかも、当時高かった英語の本を全部買ってくれた。お金もなく、悲壮な覚悟で大学に戻ってきた私にとって、本当にありがたいことでした。
 修士課程を終え、博士課程に進んだ際にも、恩師に出会います。小島清先生という国際経済学者で「博士課程を終える前に、一度外国で沈むか浮かぶか試して来い!」と。先生のお世話で1年間の奨学金をもらって、インディアナ大学の博士課程に留学します。
 ここでは大変な苦労をしました。MBA(修士)が終わった、DBA(博士)の人たちが集まる学校ですから、授業についていくのに必死。成績は低空飛行でしたよ。
 授業を受けるだけでも大変だったのに、博士課程2年目には、なんと学部の1年生のクラスを教える立場となります。奨学金が出るのは1年間だけだったので、2年目はどうしようかと先生に相談したら、アソシエイト・インストラクター(授業助手)という制度がある、と。そこでアメリカ人の学生に「経営学入門」を教えたのです。アメリカ人の1年生のクラスをマネージメントすると、月350ドルもらえて、授業料は免除になるというんです。
 しかし、英語がヘタな上に、アメリカの大学の1年生なんて、ワンパクばかりですから、これこそ大変な苦労でした。私が学生にコテンパンにやられて、先生に相談しに行くと、「ネバマインド、ネバマインド」(気にするな)と笑う。そして、「たしかにスズキの英語はヘタだ。しかし、これからは国際ビジネスの時代だから、アメリカの学生たちも、お前のようなヘタな英語になれておく必要がある。学生たちもお前に感謝しなければならない」と(笑)。
 アメリカ人ならではのユーモアですよね。このリチャード・ファーマー先生は、時にユーモアを交え、落ちこぼれだった私を、褒(ほ)めて育ててくれました。この先生も、私にとって大事な恩師です。

他人を助けることが自分のためにもなる

 私の人生は、恵まれた人間関係に支えられてきました。つねづね私は言っているのですが、勉強でもなんでも、競争して他人を蹴落として上に行こうという考えではいずれ行き詰まる。私が やみくも勉強 で英語をマスターしたように、自分が決心してしっかりやろうと思えば、必ずそれに応えてくれる 自分 がいるはずです。
 まず、自分が好きなことを見つけ、そこに自分の時間や力を投資する。そのプロセスのなかで、他人を蹴落(けお)とすのではなく、人のためにできることをする。それが自分のためにもなるのです。
 たとえば、友達と勉強を教えっこする。得意なことは教えてあげて、不得意なことは教えてもらう。人のためにやったことは、必ず自分に返ってきます。学問は決して孤独な作業ではありません。人と対話し、知識や思いを共有しあうなかで、学問はどんどん深まっていくものなんです。
 本学がいち早く掲(かか)げてきた「リベラルアーツ教育」の精神もそこに通じるものです。自分を狭(せば)めることなく、広い知識と主体的な人間力をつけていってほしい。そして国際舞台で多くの学生たちが活躍(かつやく)することを願っています。




コラム
2008年春、学科からメジャーへ

自主性を重んじるリベラルアーツ教育をさらに進化させるため、同大学では2008年4月から学科制を廃止する。これまでも学科を超えて授業を受けることは可能だったが、入学前に学科を選択する必要があった。2008年から、全学生が教養学部に入学し、31のメジャー(専修分野)から興味に合わせて授業を選択。自分の興味ある分野がどこにあるのかを見極めた上で、自分の専門を決定していくことができる。


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