関塾タイムスのトップへ戻る

2008年7月号vol.372

今月のタイムス
MONTHLY SPECIAL

合格を手にした先輩たちに続け!
 合格体験記!!

私の勉学時代
イラストギャラリー
QUIZ WORLD クイズワールド

バックナンバー
バックナンバー

お問い合わせ・ご意見・ご要望などありましたら、hp_info@kanjuku-net.co.jpまでお願いします。
関塾タイムス本誌は毎号、国立国会図書館に収蔵されています

ご注意
このサイトにある全ての内容の無断転載・転用ならびに、引用画像の二次利用を固くお断り致します。
当サイトを利用することにより生じた損害等に対する責任は負いかねますのでご了承ください。
Internet Exploler4.0またはNetscape Navigator4.0以上でご覧ください。

関塾
関塾 タイムス

私の勉学時代

東京女子大学学長 湊 晶子先生に聞く

自信を持って
新しいスタートラインだと
考えることが大切
 東京都杉並区の静かな通りに面した緑豊かなキャンパスに、白くかがやくチャペルがたたずんでいる東京女子大学は、1918年に新渡戸稲造を初代学長に、安井てつを学監に迎えて創立されました。当時から続くキリスト教を基盤としたリベラル・アーツ教育は、現代では、多様な課題に対応した広い識見と創造性のある「専門性をもつ教養人」の育成を目標にしています。

■Profile
湊 晶子 (みなと・あきこ)

1932年宮城県生まれ。
55年東京女子大学文学部社会科学科卒業。56年フルブライト奨学生としてホイートン大学大学院修了(神学修士)。
64年NHK教育テレビ英語会話中級講師。66年より東京基督教短期大学助教授・教授を経て、90年東京基督教大学教授。89-90年ハーバード大学客員研究員。99年東京基督教大学名誉教授、東京女子大学教授。2001年定年退職。
02年東京女子大学学長に就任、現在に至る。1985年よりNPO法人ワールド・ビジョン・ジャパン理事として途上国の女子教育支援活動に従事。2005年第2回新渡戸・南原賞受賞。

海の向こうを夢見て

 私は、東北大学医学部の助教授をしていた父と、父より15歳年下の母との間に、次女として生まれました。生まれて半年ほどで、父は兵庫県の衛生研究所の所長となったので、家族で仙台から神戸市須磨に引っ越しました。
 私の兄弟は、姉が1人と弟が3人、妹が1人の6人兄弟です。私は何でもお下がりだったのですが、すぐ下の弟は長男ですから、すべて新しいものを買い与えてもらっていました。そんな記憶が残っていたので、自分の子どもたちには寂しい思いをさせないようにと、2番目の子にもきちんと気を配るように努めましたね。
 6人兄弟といっても、一番下の弟と妹は、戦後生まれ。10歳以上も離れているので、姉や私はほとんどお母さん代わりのようなものでした。遊びも6人ではなく、上の4人で遊んだことしかありません。遊びといえば、須磨は白砂青松というだけあって、海岸がきれいなんですよね。だから、夏はいつも泳ぎに行っていました。そして、いつも海を眺めながら思っていたことが、唱歌『うみ』の歌詞にもあります「行ってみたいな よその国」ということ。海の向こうにあるどこかの国に行ってみたい、という夢を持っていました。戦争が始まると遊びどころではなくなったのですが、それまでは、お手玉、はねつき、まりつき、メンコ……、両親が男女区別なく平等に育ててくれたこともあり、兄弟4人が仲良く一緒に遊んでいました。私が得意だったのは木登りです。次女だったからか、どうもおてんばで(笑)。自転車に乗って坂の上から猛スピードで駆け下りたり。今考えると、体を動かす遊びが多かったように思います。


ロマンチストな父と堅実な母

 両親の出会いには、ちょっとしたエピソードがあるんです。父は母の家庭に心ひかれ、このような家庭に育った女性と結婚したいと思ったそうです。その時母は3歳でした。祖母(母の母)は「この子が17歳になって、あなたの気持ちが変わっていなかったら、もう一度申し込みにきてください」と言ったんですって。そして、父は医学部で一生懸命勉強をして14年待ちつづけ、母が17歳になったときに再度申し込んで結婚したそうです。母は最後まで「略奪結婚だ」と言っていましたが、父は「恋愛結婚だ、恋をしたんだ」と(笑)。ロマンチックでしょう? また、父は私が留学していたときに送ってくれた手紙に『今夜私の机を照らしている月の光は、明日はおまえの机を照らすであろう』から始まる文章を書くほどロマンティストなんですよ。
 そんな父とは対照的に、母はとても厳しい人でした。妥協は許さないけれども、何歩も下がって信頼して見守ってくれました。母からは、いろいろな言葉をもらったのですが、私が集中して神経をとがらせて勉強などをしていると、『伸びきったゴムは必ず切れる』と、それだけ言うんです。気持ちを張りつめるのではなく、余裕をもって何かをしなさい、ということだったのですが、いつもこの言葉で落ち着きを取り戻していたように思います。
 母にはこんな思い出もあります。戦後、物のない状態が続いていたころ、私は大学受験のため東京に行くことになりました。母は、東京へ行くのだからきれいな洋服がいるだろうと、焼けていない毛糸をほどき、ていねいに 湯熨斗をして、セーターを編んでくれたんです。毎日、疲れているのに夜なべをして。いよいよ東京へ出発する朝になりましたが、まだ左の袖が4センチほど足りませんでした。でも、もう編んでいる先を留めないと、汽車に乗り遅れてしまうのです。私は、仕方なく左袖が4センチ足りないセーターを着て受験をしました。このできごとは、母のすべてを表していると思います。それは「できる限りのことをすれば充分、悔いはない」ということ。私は、そのセーターを着て受験をし、合格したことをとても誇りに思っています。

リンカーンの伝記に感動して

 小学校低学年のころは、読み書きそろばん、とよく勉強しました。音楽が特に好きだったと思います。また、本もよく読みました。父の書斎には、医学書の他にも歴史などいろいろなジャンルの本が並んでいたのですが、中でも私は、エイブラハム・リンカーンなどの伝記を好んで読んでいました。リンカーンは小学校2年のころ読んだのですが、とても感動して、内容すべてを原稿用紙に書き写したことがあります。
 その後は、戦争できちんと勉強できませんでしたが、現在でいう中学1年のときに敗戦が決まり、本格的に英語の勉強ができたのが翌年のことでした。そのころの英語の先生といえば、とても発音が悪い方ばかり(笑)。それでも英語にすごく興味をもって、英語の詩を覚えたり、英語劇のグループに入って『レ・ミゼラブル』のコゼット役を演じたりしました。暗記することが好きだったのかもしれません。当時は気がつきませんでしたが、暗記というのはいろいろなことに役立つと思います。

父が薦めた東京女子大学

 高校1年のときに新制高校になり、女学校だったのが共学になりました。それまで 男女席を同じにせず という教育を受けていたので、同じ教室に男の子がいるということがあり得ない状況で、お互いによそ者扱いしていましたよ。すぐ仲良くなりましたけれど、最初の1か月ほどは、まったく口を聞きませんでした。現在の学生さんには考えられないでしょうね(笑)。
 クラスには理系の男の子が多かったこともあり、私も自然に理系の勉強に興味をもちはじめました。そして医者になろうと考え、理系のグループの中で、受験勉強を始めたんです。けれども当時女性が大学に進学するのは2、3%。しかも東京まで受験に行くなんて、なかなかできるものではありませんでした。さらに、父に医学部を受けたいと相談したら反対されてしまったんです。理由は、私が小柄で体が丈夫ではなかったことと、戦争の時に受けた傷で頭が少し陥没し、その後遺症で頭痛やめまいが治らないこと、体力的に続けられないからやめなさい、と。父に話したのが高校3年だったので、進もうと思っていた道を突然閉ざされ、どうしていいかわからなくなり、落ち込んでいました。すると父が、自分が非常に尊敬している石原謙先生がおられる東京女子大を受けるように、と薦めてくれました。私は気持ちを切り替え、ずっと好きだった英語を勉強しようと、短期大学の英語科に進みました。
 実は、私は4年制大学の英文科を受けることになっていたのですが、受験のために宿泊させていただいていた石原先生の家で、一酸化炭素中毒になり受けられなくなってしまったのです。当時の暖房器具といったら「練炭」なので、先生が寒いだろうと気遣って普段より多めに焚いてくださったのが逆効果になってしまったみたいで……(笑)。その後、短期大学の英語科を受けて、無事合格したのです。


卒業論文で味わった学問の厳しさ

 短期大学の英語科でしっかりと英語を勉強した私は、次第に英語で西洋の史料を読みたいと思うようになり、4年制大学に編入学して西洋史学を専攻することにしました。
 西洋史学科に入ってからは、卒業論文に「新約聖書の時代史」を書きたいと思うようになりました。時代史の専門は、石原謙先生。両親の恩師でもあり、私が受験するときに泊めてまでくださった先生ですから、卒業論文は、当然「いいよ、見てあげるよ」と言ってくださると思いこんでいたのです。私は甘かったんですね。石原先生に「新約聖書の時代史を勉強したいので、先生のもとで卒業論文を書きたいです」とお願いしたら、間髪入れずにノーの返答。その理由を聞くと逆に「ギリシャ語が読めますか」と聞かれたのです。私が専攻していた外国語は英語とフランス語のみ。すると先生は「それでは論文は書けません」とおっしゃっいました。急遽、論文のテーマを英国史に変更しました。この一件で私は学問の厳しさを教わったのです。

猛勉強で国費留学を目指す

 子どものころ、須磨の海岸に立って「行ってみたいな、よその国」と思っていた私でしたが、大人になってからは「敵国だったアメリカ」に行きたい、そう思うようになりました。憎しみではなく、心の和解をしたいと思ったのです。当時は1ドルが360円で円が自由化されていなかったので、行ける道はただひとつ、フルブライトの国費留学しかありませんでした。私は大学卒業後、助手として大学に在籍していたころに受験しました。
 受験勉強はとても大変でした。当時は、テープレコーダーなんてありませんから、リスニングの勉強も簡単ではありません。朝9時に国会図書館に行き、歴史学者のアーノルド・トインビーの大きなレコード盤を借りて、夕方5時まで何回も何回もレコード盤がすり減るくらい聞くんです。そうすると、夕方までにメモが取れるようになります。受験者の中には英会話ができる人は大勢いますが、ディベートできるだけの英語力がなかったら、外国に行っても意味がありません。国会図書館に行けばリスニングの勉強ができることなどを教えてくれたのが英語科でした。結果、2万人の受験者のうち35人という合格者の中に入れたのも、やはり英語科に入って猛勉強をしたからだと思います。2年間の学びの中で、自分のやりたいことを見つけることができたことは、人生の宝物のように思います。

自信を持って、新しいスタートラインに立つ

 自分の思ったところにいけない、とガッカリしている学生を見かけますが、そんなときは「新しいスタートラインだと考えなさい」といつも言います。私の場合、英文科ではなく、英語科に行ったことで徹底的に英語力を磨くことができ、西洋史という、自分が本当にやりたいことを見つけられたのです。結果的にそれが私のライフワークにもなりました。「自信を持って、新しいスタートラインに立つ」。とても勇気のいることですよね。しかし、これが人生を生かすのだということを知ってほしいと思います。実は、私が4年制大学に入れずに、落胆して神戸に帰ってきたとき、両親がそのことを言ってくれたんです。「新しいスタートラインがあるじゃないか」と。
 長い人生の中で、挫折と感じてしまう出来事は多くあると思います。けれども、考え方を少し変えるだけで、それはプラスにもなることを、心に刻んでおいてください。



コラム
受け継がれていく女性論
 初代学長の新渡戸稲造先生は、1917年に『婦人に勧めて』という本を書いておられますが、その中で「男女の人格的には差はなくて、女性は女性として生きていくのだ」というすばらしい女性論を唱えられています。その思いは、今日にまで受け継がれ、五つの女子大学が協力して、「アフガニスタン女子教育支援コンソーシアム」を立ち上げ、活動をしています。


←ひとつ前のページへ ↑このページのトップへ