| 武蔵野の自然が遊び場
私は終戦の前年に東京都で生まれました。家族は、両親と3歳年下の妹が一人。父が武蔵野市役所に勤めていたこともあり、5歳の時に足立区から武蔵野市へ引っ越しました。父は仕事一筋の人でした。一緒に遊んだ記憶はあまりありません。戦後の慌ただしい時代でしたし、幼い私も、それが当たり前だと思って過ごしました。
小学生時代は勉強が嫌いで、遊ぶことに夢中でした。武蔵野台地を東へ流れる玉川上水に千川という支流があります。幅は約2メートル、深さも1メートルくらいでしたでしょうか。よくその川を飛び越えたり、魚釣りをしたりしていました。友達とは、野球や柔道などをして遊んでいましたね。武蔵野は今では都会ですが、当時は畑も多く自然豊かな場所でした。子どもの遊び場としては、大変恵まれた環境だったと思います。また、家の近所には、中島飛行機という零戦(零式艦上戦闘機)などをつくっていた工場の跡地がありました。戦中に爆撃を受けて更地になっていたのですが、そこでもよく遊んでいましたね。そのうち米軍に土地が接収され、同じく米軍に接収された立川基地の宿舎に当てられました。私たちの世代の幼少期は、まだ戦争の傷跡が残っていて、物資も不足していた時代でした。食べるのに精一杯の生活。みなさんには、なかなか想像できないでしょうね。
スポーツに夢中だった中学・高校時代 中学は武蔵野市立第四中学校に通いました。勉強に対する印象は、小学生の時とは一変しました(笑)。知らないことを教えてくれる授業が楽しくて、一生懸命聞いていましたよ。特に英語は新鮮でした。今でもそうですが、新しい物事に対して、まったく抵抗を感じない性格なんです。積極的に関わろうとします。だからといって、定期試験のために必死になって勉強をしたことは、あまりありませんでした。英語の教科書を、数日前に丸暗記したくらいでしょうか。部活動にも熱心に取り組みましたね。柔道は東京都の大会で4位になりました。ある高校から「柔道をやらないか」とスカウトもされたんですよ。
高校は、東京都立国立高等学校を自ら志望しました。入学後は硬式野球部に所属。毎日暗くなるまで練習をしていましたね。ポジションはセンター、打順は一番でした。高校2年の時の夏の予選大会では、塀に当たるほどのツーベースヒットを打って、新聞に記事が載ったことも。ところが、3年生になる時、受験勉強をするために部活を辞めてしまったんです。すごく惜しいことをしたと思います。結局、大学受験に失敗したので、それだったら部活を最後までやっていればよかったと思いました。
受験に失敗 挫折を乗り越えて
部活を途中で辞めてまで受験勉強を始めたのは、どうしても東北大学に行きたかったからです。
物理が好きだったので、大学の工学部で電気を学びたいと前から何となく考えていました。特に電気は、実験と計算の結果がぴったり合うのが魅力でした。「オームの法則」(*1)などは実験値に合うようにつくられた式なので、一致するのは当然なのですが(笑)。式として考えたことが実験で合うと気持ちがよかったですし、目には見えない電気が量としてとらえられるのが大変おもしろかった。何より物理を担当されていた大塚先生の授業が、わかりやすくて今でも印象に残っています。2、3年の時にクラス担任だった中村先生も好きでした。当時26、27歳の若い男性で、生物を担当されていました。大塚先生には勉強でわからないところを教えてもらっていましたが、中村先生には勉強以外のことをよく相談していましたね。中村先生とは、私が信州大学に赴任したころ、スキー場で偶然再会しました。今でも交流があります。
1度目の受験に失敗した後でも、東北大学を諦めようとは思いませんでした。絶対に合格しようと思い、今度は必死に勉強しましたよ。予備校にも通いました。予備校の授業は朝の9時頃から夕方5時まで。授業の内容をしっかりマスターすることを基本に、志望校対策として足りないところを自主学習で補うというスタイルをとりました。家ではなく予備校で、昼間に集中して勉強をしましたよ。どの教科にも力を入れて取り組みましたが、特に数学と物理は苦戦しましたね。東北大学は数学の入試問題がやっかいで、毎年しっかり考えさせて書かせる問題が出題されるので、問題を読み解く力が必要だと感じました。しっかり対策をして挑んだおかげで、2度目の受験は十分に手ごたえを感じることができました。
*1 オームの法則…1826年、ドイツの物理学者ゲオルク・オームにより公表された法則。導線を流れる電流の強さは、その両端における電位差に比例し、抵抗に反比例するというもの。抵抗の単位はΩ。
新しい研究室 十分な設備のない中で
2度目の受験で合格し、晴れて東北大学の工学部に通うことになりました。3年生の専門課程では西澤潤一先生(*2)の授業を選択したのですが、印象は強烈でしたね。教室に入って来るなり半導体を見せて、「これで新幹線が動いている。これをつくったのは私だ!」と言って授業が始まるのです(笑)。すごい先生がいるのだと驚きました。
3年生の時、大学院に進むことを決め、村上孝一先生の研究室に入りました。先生の研究テーマは磁石の応用。磁性(磁気)を帯びた金属の温度を上げていくと、金属が溶ける前に、その磁性がなくなる温度があり、これを「キュリー温度」(*3)と言います。鉄のキュリー温度は約750℃です。ある材料で、室温で80℃のお湯をかけるとこの温度に達し、温度が下がると磁力が復活するものがあります。村上先生は、この材料を応用する研究をされていました。温度によって変わる様々な磁石の性質を、どのように応用して社会に活かせるかを考える研究です。村上先生の研究室は新しくできたばかりで、測定するための機器がそろっていなくて苦労しました。そこで企業に行って機器を借りたのですが、昼間は企業が使用しているので、実験できるのは夜中の12時から朝にかけて(笑)。また、研究の歴史も長い分野でしたので、海外の古い文献を探し出して読み解くのも大変でした。
研究室に入る時、西澤先生からも「磁気のような研究は、やり尽くされていて、そのうち行き詰まるだろう。半導体のような新しい分野をやるべきではないか」と言われました。しかし、磁気というのは実に息の長い研究分野です。磁気を応用した技術が、社会からなくなることはないでしょう。やってよかったと思っています。
*2 西澤潤一…工学博士。東北大学教授、総長などを歴任。半導体デバイス、半導体プロセス、光通信の開発で優れた成果を上げ「ミスター半導体」とも呼ばれる。
*3 キュリー温度…別名「キュリー点」。ピエール・キュリーにより名づけられた。ピエールは妻のマリー(キュリー夫人)とともに、ラジウム、ポロニウムを発見した人物としても知られる。
自ら考え、工夫する 答えが出ない経験も必要
みなさんにはぜひ、学校生活の中で好きなことを見つけてほしいと思っています。クラスの仲間と一緒に取り組めることを好きになってほしい。学校での授業をみんなで楽しくするような方法など、自ら考えてほしいですね。おもしろい授業というのは、先生から与えられるものばかりではないからです。
また、家でも学校でも「自分で考えるチャンス」をたくさんつくってほしいと思います。それには先生だけでなく、保護者の協力も不可欠です。答えを安易に求めず、じっくり考える時間はとても大切です。時として答えが出ないこともあるでしょう。ですが一生懸命考えて答えが出なかった経験も、将来必ず役に立つと私は思います。研究においても同じことが言えますが、長い時間をかけ芽が出るかどうかわからないことを考え続けるのには、根気が必要です。根気やねばり強さを身につける経験は、決して無駄にはなりませんよ
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