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2008年8月号vol.373

今月のタイムス
MONTHLY SPECIAL

夏休みの有意義な過ごし方
目標は「苦手科目の克服に全力集中!」中学生

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私の勉学時代
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関塾
関塾 タイムス

私の勉学時代

大阪大学総長 鷲田清一先生に聞く

人生においては
「要領よく」より「トコトン」が大事
 吹田市をはじめとする大阪府内4カ所にキャンパスを持つ国立大学法人大阪大学は、11の学部と15の大学院研究科を擁する総合大学です。江戸時代に設けられた懐徳堂と適塾を精神的な源流としつつ、1931(昭和6)年、理学部と医学部の2学部体制で創設され、その後に順次、組織を拡充。昨年10月に大阪外国語大学(現・外国語学部)を統合し、現在に至っています。
 総長を務める鷲田清一先生は哲学者。研究室ではなく、教育や看護などの現場に出て、その現場にある問題を考える「臨床哲学」を提唱、実践されています。

■Profile
鷲田清一 (わしだ・きよかず)

1949年京都府生まれ。
72年京都大学文学部哲学科倫理学専攻卒業。77年同大学大学院文学研究科哲学専攻博士課程単位修得退学。78年に関西大学文学部専任講師。88年同大学教授。92年大阪大学文学部に転じ、03年同大学大学院文学研究科長・文学部長。07年同大学総長に就任、現在に至る。
著書は多く、『分散する理性』と『モードの迷宮』でサントリー学芸賞、『「聴く」ことの力』で桑原武夫学芸賞を受賞。04年には紫綬褒章を受けた。

露地や通りが遊び場代わり

 出身は京都市の下京区、佐女牛井町(さめがいちょう)というところです。いわゆる下町で、周りはお寺だらけ。東本願寺に西本願寺、今は山科区にある日蓮宗の総本山・本圀寺(ほんこくじ)も近くにありました。
 下町ですから、狭い露地が多かったですし、家も小ぶりなものがほとんど。そのうちの一軒、狭い露地の一番奥手、玄関から裏の家まで5メートルほどしかない住まいが、私の生家です。
 父は塗装職人でした。職人というと、みなさんには珍しく聞こえるかもしれませんが、当時の下町には木工、神楽(かぐら)、傘やロウソクなど、それぞれの専門分野を持つ職人さんが数え切れないほど住んでいたものです。そして近くの露地や商店街には、そうした職人さんの家とひしめきあうようにして、八百屋、肉屋、魚屋、タバコ屋、牛乳屋、呉服屋、紙箱屋、散髪屋、和菓子屋、漬け物屋、書道塾、そろばん塾…。人々が日常生活を営むための、ありとあらゆる商店が軒を並べていました。
 家が狭い私にとっては、こうした露地や通りが遊び場でした。ビー玉やプロレスごっこなんかもよくやりましたが、一番記憶に残っているのは、やはり野球です。
 さすがに野球となると、狭い露地でやるわけにはいきません。そこで私たちが選んだのは、近くにあった幅の広い堀川通でした。京都市の幹線として、今はひっきりなしに車が通る道ですが、当時はまだまだ車が少ない時代。数分に1台しか車が来ないので、野球場代わりにぴったりだったのです。
 そしてひとしきり汗をかいたあとは、お寺のお手水(ちょうず)で頭を洗い、参拝者用のお茶をいただく。小学校の高学年になるまで、勉強した記憶はあまりありません。毎日毎日こうして元気に遊んでいました。


バス通学がしたくて受験を決意

 6年生にあがるころ、遊び一色だった小学校生活にちょっとした変化が訪れました。両親が「こういう道もあるよ」と中学受験を勧めてくれたのです。
「あんまり気が乗らないなあ」というのが、最初に話を聞いたときの正直な気持ち。でも、結局は受験を決めました。「バスに乗って、遠くに行きたい。受験して遠くの中学に行けば、バス通学ができるかも」。そんな思惑があったんです。
 当時、京都市内には阪急電車、京阪電車、国鉄(現JR)のほかに、市電(路面電車)とバスがありましたが、どれもこれも滅多に乗れないものばかり。遠出する機会と言えば学校の遠足くらいのものでしたし、町内単位の結束が強いころで、ひとりでは隣の町内に行くことすら怖かったですから。一度、ひとりで隣町に行ったら、ちょっとしたスキに乗って行った自転車がバラバラに解体されていた、なんてこともありましたね。
 小学校の同級生約300人のうち、受験するのは私立、国立志望合わせて4、5人ほど。先生が「放課後、グループで一緒になって勉強したらどうか」と勧めてくださり、それぞれの家を渡り歩いて勉強しました。
 とはいえ、モノが何もかも足りない時代のことです。勉強に使うドリルだって、ほとんど売っていませんでした。だから1時間ほど勉強すると、もう勉強する材料がない。そこから先はプロレスです。勉強に関する思い出で残っているのは、小学生には絶対に解けないという触れ込みで渡された算数の問題集の問題が全部解けて、ものすごくうれしかったことくらいでしょうか。

バンド活動に熱中した高校時代

 市バスで20分ほどのところにある京都教育大学附属中学校、高校に6年間通いましたが、ここでもやはり、最後の学年になるまで勉強からは遠ざかっていました。代わりに身近だったのは、高校1年まで取り組んだバレーボールと、中学3年の終わりごろから夢中になったロックとバンド活動です。
 バンドは同級生3人と組んでいました。自宅学習のために午後が休みになる定期試験の最中、「今だ!」とばかりに4人で繰り出した先は図書館…ではなく山。大きな音を思う存分出して、ロックに浸りきりました。エレキギターを通じて大きな音を出すこと、ほかの楽器と音を合わせることが、勉強よりずっと楽しかったんです。計50組以上、同志社大学のジャズバンドも出場した音楽コンテストで優勝したこともあるんですよ。
 そんな高校生活でしたから、受験勉強を始めたとき「京都大学(以下、京大)は二浪しても無理だ」と先生から言われてしまいました。でも、この言葉に私は発奮したんです。「何を言うか。そんなことを言うなら、意地でも合格してやる」って。
 学費の関係で私立大学には行けない。下宿には両親の許可が出ない。残された選択肢は、自宅から通える国立大学の京大だけでした。でも、同じように京大を目指す同級生はずっと真面目に勉強してきている。そこで私は決めました。「この1年は勉強! バンド活動は封印する」。使っていたエレキギターを押し入れの中にしまい、音楽活動一色だった生活を勉強一色に切り替えました。
 食事と銭湯に行っている時間以外、すべて勉強です。学校では、授業はもちろん、休み時間も同じバンドだった友人と問題の出しあいっこ。午後4時ごろに帰宅して、「寝るのは罪や」とばかりに午前2時くらいまで机に向かっていました。夏休みにはひとりで福井県の尼寺に行き、ロックでは気がそれるので、クラシックを聴きながら勉強した思い出があります

自分は、なぜここにいるのだろう

 何とかうまいこといって、京大に現役で合格することができましたが、時代は学生運動の真っ只中。3年生に上がるまで講義はほとんどなく、クラスの友人とひんぱんに読書会をしていました。カントやヘーゲル、マルクスらが書いた、難解で、ひとりで読むのがしんどい本を、みんなで「あーだこーだ」とやりながら読み解いていたんです。一緒にいる奴より読めないとくやしいものだから、みんな必死。講義に出るよりずっと濃密な時間でした。
 とはいえ講義に出ていませんから、単位はないし、あっても成績は悪い。3年生に上がるに当たって選んだ「哲学講座」は、第3志望でした。新聞記者を目指して、フランス文学講座、社会学講座を第1、第2希望にしていましたが、両講座ともに大人気。私は選抜の面接すら受けさせてもらえませんでした。
「まあ哲学でもええか」。高校時代から「自分はなぜここにいるのだろう」ということに興味を持ち、サルトルやドストエフスキーの哲学っぽい本を読んでいましたから、さして落胆はしませんでした。難しいけど、ひかれる。自分の何かを言い当てている。そんな哲学の深さに面白さを感じていました。


自分の問題に、自分の思考力で対峙(たいじ)する

 哲学講座で出会った先生は、本当に厳しい人でした。ちょっとでもいい加減なことを言うと、鋭い突っ込みが返ってきたものです。
「誰々における何々について」。日本の哲学者の論文の多くは、こんなタイトルがついています。有名な哲学者の書いた本の内容について吟味して、それについて自分の意見を書いているわけです。
 先生の論文は、こうした体裁をとっていませんでした。人の書いたテキストについて考えるのは簡単。先生は、自分が大事だと思うことを自分の思考力だけを武器にして、考え抜かれていました。
 こうした哲学における姿勢は、私が自己のテーマとしている『臨床哲学』にも影響を与えています。ちなみに臨床哲学とは、自分たちが直面している問題の本質とは何かを、その問題が起きている現場に出て考える、そんな学問です。

「トコトン」こそ人生のキーワード

 人生で大事なことは「トコトン」やることだと私は思います。「トコトン」やり詰めることで初めて、人間的に成長できるからです。
 毎日毎日練習して、自分では「これ以上無理だ」というくらい没頭していたエレキギター。高校3年生になるとき押し入れにしまったあと、大学生になって一旦プレーを再開しましたが、しばらくたって楽器屋に売ってしまいました。
 なぜ売ったのか。それは、自分では到底到達できないレベルの演奏を目の当たりにしたから。「自分なりにはトコトンやってきたけど、上には上がいるんやなあ」ということに気付かされたからです。このとき、私は自分の「小ささ」というものを実感し、人間的に成長できました。そして同時に、自分が超一流になれる別の道に向かって、パッと方向転換できたんです。
 こざかしく、要領よく過ごすより、自分が「コレ!」と決めた道を、しばらくの間は脇目も振らずに歩いてみてください。もしその道が間違っていたとしても、その道を「トコトン」進んだ経験は、みなさんにいろんなことを教えてくれるはずです。



コラム
日本最大の国立大学
 大阪外国語大学との統合に伴い、大阪大学は1学年の定員が3235人に達する日本最大の国立大学になりました(大学院は除く)。外国語学部を持つ国立の総合大学は大阪大学だけです。清少納言の『枕草子』にも登場する待兼山に抱かれた豊中キャンパス、約100万平方メートルという広大な敷地面積を誇る吹田キャンパス、統合で加わった緑豊かな箕面キャンパスのほか、大阪市中心部に社会貢献の拠点・中之島センターを持つ大阪大学は今、さらに高いレベルで「感受性と良識を磨くことのできるキャンパス」(鷲田清一総長)を目指しています。


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