| 生まれながらにしてグローバル
私は1947年の10月24日生まれですが、10月24日って何の日か知っていますか? 実は国連ができた「国連の日」なのです。幼い頃からそのように聞いていたこともあったからか、外国の子と遊んだり外国のものに親しんだりすることに積極的で国際的な子どもでした。さまざまなものに対してグローバルに携わろうという意識が、自分なりにあったのでしょうね。幼稚園のとき、オーストラリア人の友達がいたのですが、英語なんてわからないのに、ケンカしていたんですよ(笑)。
自分専用の化学実験室 私が子どもの頃、父は、大阪ガスに勤めていました。その頃、特別にガスの製造現場を見せてもらったことがあり、その影響で化学に興味を持ちはじめたのだと思います。家の裏庭に実験室を作って、そこにアルコールランプをたくさん並べ、炎の色を変える実験や何かを燃やしては反応を見ることを楽しんでいました。小学校の卒業文集に、化学者になりたいと書いたくらい理科は特に好きで、小学生のときは成績も良かったです(笑)。
昔は何か一つに秀でていると一目置いてもらえました。それがうれしくて、がんばれたのでしょう。かけっこが速いとか絵がうまいとか、そういった子は、羨望の眼差しで見てもらえるし、たとえケンカが弱くても、強い子が守ってくれる。うまくバランスが取れていたんですね。
先生を困らせよう
中学は奈良女子大学附属中学校に進学。受験するからには合格しないといけない、と思っていたので、勉強はがんばりました。それまでは、勉強に関して何も言わない両親だったこともあり、結構遊んでいたんですけど(笑)。
入学してからは、教育実習に来られる先生たちを困らせるために、勉強していました(笑)。大学から女性の実習生が20人来られたのですが、新米ですから、間違えることだってあるわけです。それを指摘するために一生懸命予習して、授業に臨んでいました。例えば、「潮来」の読みを質問するのです。読めない先生がいたり、間違えたりする先生もいます。そこで、「しおき」と読んだ先生に、「ちがう!!」と指摘する(笑)。少し異質な勉強への取り組みですね。でも授業が終わったら、みんな先生と遊んでいましたよ。
個性豊かな先生たち
そんな中学生時代でしたが、中学も高校も授業には、大学から先生が来てくれました。どの先生も、本当におもしろい方々ばかり。いまだに印象深い先生が4人もいるほどです。一人は一般企業出身で化学を教えてくれた中村先生です。先生とは、高2の夏休みに一か月、岐阜県の長良川で合宿しました。川のいろいろな場所で水を汲み、生態系や成分を調べる実験を手伝ったのです。先生には化学で使う英語を教えてもらったこともあり、大学でとても役立ちました。もう一人は、物理の大西先生。大阪大学の物理学のドクター(博士課程)で、25、6歳と若く、教え方がとても丁寧でした。考え方に重きを置かれる先生で、間違った答えでもきちんと評価してくれました。
そして体育の先生。先生は私が所属していたバレーボールクラブを指導する前、東京オリンピックに出場した日本代表チームのコーチをされていました。おかげで私たちは「東洋の魔女」といっしょに試合をすることができ、勝負にもならなかったとはいえ、いい経験をさせてもらいました。
恩師の一人でもある武部先生は、中国文学の李白の専門家で、時代背景やエピソードなどを交えてとてもわかりやすく教えてくださいました。漢詩は難しかったけれども、好きになりましたよ。それに、先生の授業内容がそっくりそのまま大学入試に出たんです。授業がおもしろくて真剣に話を聞いていたので、もちろんほぼ満点でした。
勉強はみんなでするもの
中学・高校時代は、いつも大勢の友達と一緒に、難しい問題を解いたり、ああだこうだと言いながら勉強したりして楽しかったです。普段の勉強も大学受験のための勉強も、特にがんばったという記憶はありません。難しい問題は、できる友達が教えてくれて、そこですべて理解できるという感じでした。高校時代、地理の得意な子がいたんですが、一度も行ったことがない場所なのになんでそんなに知っているんだ! と思うくらい地理に詳しく、その子が得意げに話をしているのを聞いているだけで、覚えられたんですよ(笑)。
とにかく、人と違うことがしたい!
大学は東京工業大学の理工学部に進みました。この大学に決めたのは、附属高校から誰も進学していなかったからです。また東工大は1年生の授業から、とにかく実験が多い大学でした。人と違ったことをしたいという性格と、実験に興味があった私には、合っていたようです(笑)。
4年生になり研究室を決める際も、花形ではない「電気化学」を選択しました。おもしろそうなのに人気がないのが気になったし、何か新しいことをしたいという気持ちがあったからです。
研究を進めるうち”ここから新しい分野を創りたい“と思うようになり、今までになかった「生物電気化学」という領域を友達とともに創り出しました。「電気化学」とは、物質間の電子の授受に関する学問です。その中でも「生物電気化学」は、あらゆる生物が体内で行っている電気化学反応を研究する分野です。例えば、私たちが普段何気なく行う呼吸によって、電気化学反応が起こります。体内に取り込まれた酸素は、食べたものを体内で燃やし(エネルギーをつくり)、生成物である二酸化炭素を放出します。このように食べ物が体内でエネルギーに変わる反応を酸化反応(※1)と言い、電気化学反応のひとつになります。バイオ化学の可能性はまだ注目されていない頃だったので、ワクワクしながら取り組んでいたように思います。
※1 酸化反応…電気化学の反応で、「酸化」することで対象物質が電子を失う反応。逆に電子を取り込む反応は「還元反応」という。
ノーベル賞をもらえたかもしれない発見
工学部助手として当校に来てからは、金属タンパク質の電気化学を中心に研究するようになりました。
体内には、呼吸によって電子をやり取りしているシトクロムという金属タンパク質があります。これを取り出して、体内でなくとも、ビーカー内の電極の上で電子のやり取りができる(酸化還元反応がある)のではと思って実験してみたのですが、全然できない。それが試行錯誤をしながら実験を重ねていると、ある時、反応が起こったのです。そもそもタンパク質というのは、メタル(金属)表面に強く吸着すると構造が変わってしまい、タンパク質の機能を失ってしまいます。しかし、タンパク質と金属の間にクッションができるよう、電極になるメタルの表面に特定の分子を付けたら、タンパク質の構造が変わることなく、電極の表面に付き、電子が通ったことが信号として見えたのです。
私が発見したこの方法によってタンパク質からいろいろな信号が取り出せるようになり、金属タンパク質の機能についての研究は急速に進歩しました。この時極めて簡単な方法で電極のような固体表面の性質を変える手法を開発しました。今では世界中で使われるようになり、さまざまな分野に応用されています。この手法は応用範囲が広く、上手に名前をつけて公表していたらノーベル賞をもらえたかもしれないんですよ(笑)。
失敗を恐れるな!
私自身、このような研究を通じて数多くの外国に招かれ、多くの友人ができました。その経験からも、これからの学生たちには、自分が世界と繋がっていることをより身近に感じてほしいと思います。できれば大学のときに、繋がりを感じられる状況を作っておいてほしい。大学時代に作り上げた友達のネットワークは、必ず将来に生きてきますし、日本人が今以上に世界で活躍できるようになるのです。そのためにも、熊本大学では留学生をどんどん受け入れていきたいと考えています。
それから、私が常に思っていることは、もっと自由に、失敗を恐れずに行動することが大事だということ。成功しないとだめだと思うと何もできません。失敗したりできなかったりするのが当然だと思えば、できた時の喜びは大きいし、またがんばろうと思えます。人のためでもいいし、自分のためでもいいので、とにかくやってみてほしい。能力は出し惜しみせず、思い切り発揮しないと向上しないものです。
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