| 名前がコンプレックスだった
私の名前は仲他と言います。「他人と仲良く」という解釈もできるので、今では結構気に入っていますが、子どもの頃はこの名前がとても嫌いでした。「チュータ」という響きがネズミのようでしょう(笑)。絵本なんかに出てくるネズミの名前も「ちゅー太」でしたし、小学校時代は特に友だちにひどくからかわれました。学校生活のほとんどが名前に関する苦労だった、と言っても過言ではありません。
そこで、子どもの頃は、どうしたら名前を呼ばれないですむかということを、一生懸命に考えていました。むきになって「言わないで!」と言うと、子どもはよけいにおもしろがるでしょう。一人ひとりの性格をよく観察して、対処法を考えましたよ。おもしろがって「ちゅうた、ちゅうた」と繰り返す子は、何を言っても無駄ですから、あまり言い返さないようにしようとか。大げさに言えば、人間社会の原点について、小さな頃から考えていたということでしょう。コンプレックスを通して、多くのことを学びました。変わった名前も、考え方を変えればインパクトのある名前ですよね。皆さんにもコンプレックスがあれば、それを乗り越えるためには何が必要か考えてみましょう。コンプレックスを乗り越えることで、強い自分に出会えるかもしれません。
どんなことからでも、何かを学ぶことはできます。身の回りの出来事を「学び」に変えていくための好奇心を養ってください。
英語にまつわる思い出 私は大阪府箕面市の住宅地に住んでいました。
父は大阪市役所に勤める公務員でした。帰りが遅くて、一緒に何かをした記憶はあまりないですね。姉が二人いましたが、彼女たちとも歳が離れていましたので、近所の友だちと遊ぶことがほとんどでした。姉たちから勉強を教えてもらったことはないのですが、幼稚園の時に英語のアルファベットを教わったことは覚えています。アルファベットをただ書くだけだったのですが、おもしろいなと思いました。幼稚園でも英語の歌を習っていました。今では珍しくないかもしれませんが、当時としてはかなり早くから英語に親しんでいたのではないでしょうか。
英語に関しての思い出といえば、中学校の時、とても印象深い先生に教わりました。阪本晴子先生という女性の先生で、積み木を使って動詞と助動詞の違いを説明するなど、授業に様々な工夫をしてくださいました。生徒にも積極的に発言をさせて、ただ教科書通りに進める授業とは一味違いましたね。授業にかける情熱は、生徒の私たちにも伝わっていました。とても指導力のある先生で、中学教師を引退された後は英語塾を開かれ、たくさんの優秀な教え子を輩出しています。
ノートが下級生のお手本に
小学校からずっと、授業は真面目に受けていました。なんとなく、優等生でいなければいけないという思いがあったんですね。児童会の会長になったのも、そういった思いからでした。だからといって勉強ばかりしていたわけではありません。友だちと野球をしたり、鉄道模型の部品を買って自分で組み立てたり、勉強以外のこともしていましたよ。中学校の時は、軟式テニスクラブに所属して、生徒会にも入っていました。勉強以外のこともバランスよくできなければという思いがあったんです。そういう意識が先にあったものですから、特別に熱中できるものがありませんでした。それが悩みでしたね。「優等生でいなければ」と思ってきた自分自身も嫌で、高校生の時にそういう自分を払しょくしたくて悩んだこともあります。
まったくの放任主義だった父とは反対に、母は比較的教育熱心だったと思います。特に、毎年一学期に学級委員長に選ばれると、母はとても喜びました。「優等生でいなければ」という思いの中には、母を喜ばせたいという思いもあったんですね。
学生時代、テスト前だからといって、特別に時間を割いて勉強したことはありません。ですが、ふだんの授業で心がけていたことはあります。ノートをきれいに書くことです。特に小学生の時は、趣味の一つのような感じでしたね。ルーズリーフを使っていました。一年間書き溜めたものを最後に束ねて持つと「勉強したな」と実感できたんです。そのノートですが、先生に見せたところ、取り上げられてしまいました。後で聞いたら、その先生は私のノートを下級生にお手本として見せていたそうです。
悩みや挫折を通して自分を見つめ直す
高校は大阪府立北野高等学校へ進学しました。今でも進学校として知られていますが、当時もなかなか難しい学校でしたね。私は最初、家から近い学校を受験しようと考えていました。ですが、学校の実力テストや、学外の模試の結果を見た担任の先生に「北野高校に行けるんじゃないか?」と言われて、進路を変えることになったんです。中学3年生の年末か年明け頃のことだったと思います。ぎりぎりですよね。しかし、これといって焦ることなく勉強を淡々とこなしていたと思います。受験勉強は、学習内容の復習を中心に進めました。
高校に合格が決まった後、春休みに因数分解の宿題が出たことを覚えています。そして、新学期が始まってすぐ因数分解のテストがあり、偶然良い成績だったんです。それがいけなかった(笑)。気が緩んだのか、授業に集中しなくなりました。成績もあまり良くなかったですね。高校時代は、勉強に関する悩みや、部活動に関する挫折などを経験した、転機の時でもありました。でも、自分を見つめ直す時間を持つことができたのは、今になって考えてみるとプラスだったと思います。
同時通訳との出会い
私が「同時通訳」という仕事を知ったのは、高校時代です。同時通訳が日本でそれほど知られていなかった頃で、私も初めは「同時に通訳なんてできるわけない。不可能ではないか」と思いました。そう思いながら同時通訳という仕事に惹かれました。他の人にはできない、自分にしかできないことを探し続けていた高校生の私にとって、同時通訳という仕事は大変魅力的だったのです。そして、それまであまり興味のなかった大学進学を考えるようになりました。同時通訳の存在を知ったことが、受験勉強に真剣に取り組むきっかけになりました。
大阪外国語大学へ入学した後は、京都のYMCA(*)に通って、同時通訳の講座を受けました。アメリカの国務省で同時通訳の訓練を受けた方が講師をされていました。その講座で、同時通訳とはどんなものかを知り、自分に合っているなと思いました。
訓練に夢中になりましたね。さらに、大阪にある会議通訳の会社にも通いました。国際会議で同時通訳を請け負う民間の会社で、スクールも開校していたところです。そこでも訓練を受けました。
会議通訳デビューをしたのは、1971年です。場所は本格的な同時通訳ブースを備えた、京都の宝ヶ池にある国立京都国際会館でした。新人の仕事は、主に原稿読みです。あらかじめ日本語に翻訳した原稿を用意しておいて、英語のスピーチに合わせてその原稿を読み上げる仕事でした。簡単に思えるかもしれませんが、スピーチと原稿がずれないようにするのは、なかなか大変ですよ。セッションの場で即座に行う通訳はなおさらです。会議通訳には、英語力や日本語力だけでなく、医学や科学、社会情勢など、どんな話題にも対応できるよう豊富な知識と理解力も必要となってきます。通訳者は、あらゆる国際交流の舞台で活躍しています。もし通訳に興味があるなら、どんな場面で活躍したいか、一度考えてみてくださいね。
* YMCA…キリスト教青年会。教育や福祉、文化など事業を展開する。現在、日本のYMCA同盟には、全国34都市にある「都市YMCA」と36の高校・大学にある「学生YMCA」が加盟している。
どんなことにも「おもしろがる」心を
熱中できる何かがあることは、すばらしいことです。その何かを見つけるために、皆さんには好奇心を養ってほしいと思います。どんなささいなことでもいいですよ。勉強以外のことでも構いません。まずは「おもしろがる」ことが大切なのですから。ただし、おもしろいものなら、なんでもいいわけではありませんよ。例えば、テレビゲームに熱中することは、好奇心とは言えません。「このゲームのプログラムは、どうやって組み立てるのだろう?」と考えた時、初めて好奇心は芽生えます。「なぜ?」と思うことが大切です。
保護者の方は、お子さんが何かに興味を持ったなら、それを否定したり取り上げたりせずに、好きなように熱中させてあげてください。何かに興味を持つことは、子どもの持ち味を伸ばすことにつながります。「おもしろがる」ことを経験すれば、それが勉強に活かされることもあるでしょう。好奇心から開ける道は必ずあります。がんばってくださいね。
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